「栄光なき天才たち」

― 炎のスプリンター 人見絹枝 ―

  作.伊藤智義


1.スタジアム
  大観衆で埋まっている。
 ― 1928年(昭和3年) アムステルダムオリンピック ―
  スタート位置についている選手たち。
  その中にいる人見絹枝(21)。
  人見、目を閉じ、じっと何かに耐えている。
 ― 800m決勝 ―
 アナの声「さあいよいよ人見絹枝の登場です。まさかの800m出場。じっと目を閉じ
  ています人見。心中期するものがあるのでしょう。夕べは一睡もできなかったと伝え
  られています。それもそのはず、あの三日前の悪夢 ― 」
  数少ない日本選手団が見守っている。
  新聞記者が現われ、そこにいるコーチに、
 記者「コーチ。人見絹枝は800m、初めてだというのは本当ですか?」
 コーチ「(見る)本当です。昨日走った予選が初めてで、それ以前には一度も…」
 記者「そんなんで大丈夫なんですか?100mのときのようなブザマな負け方は許され
  ませんよ」
 コーチ「(ムッと見る)」
 記者「なんせ人見は、日本を代表して来るんですから」
  コーチ ― 。
 アナの声「日本国中の期待を背に、人見、いまスタート位置につきましたっ!」
  スターターの合図を待つ人見。
 N(ナレーション)「人見絹枝 ― この大会からオリンピック正式種目となった女子陸上に
  日本が送り込んだ唯一の女性選手である」
 スターター「(ピストルをかざし)ヨーイ…」
 N「しかし彼女はオリンピックに参加するためにやってきたのではなかった」
  バン!!
  号砲一発、はじけるように飛び出す人見絹枝。
 N「勝つためにやってきたのである ― 」

2.人見の記録
  各競技を行なう人見のカットにかぶって、
 N「1924年(17歳)岡山県陸上競技会
     三段跳び10m33世界新
   1926年(19歳) 第二回万国女子オリンピック(スウェーデン)
     走り幅跳び5m50世界新
     個人総合優勝
   1927年(20歳)女子体育大会
     200m26秒1世界新
     立幅跳び2m61世界新
   1928年(21歳)日本選手権
     100m12秒2世界新
     走り幅跳び5m98世界新
    *
   そして迎えたオリンピック ―
   日本国中は沸騰した」

3.大勢の人たちに見送られる人見
 N「100mにエントリーした人見は、その実力からして、たとえ優勝は逃がしたとし
  ても、メダル獲得はまず間違いないと言われていた。
   ところが ― 」

4.オリンピックスタジアム
 ― 100m準決勝 ―
  懸命に力走とている人見。
  だが、意に反して四番手と遅れている。
 アナの声「(悲痛に)どうした人見っ!人見、伸びないっ!人見、伸びないっ!」
  必死の人見。
  だが ―
 アナの声「ああ ― …」
  人見、四着でゴール。
 アナの声「人見破れましたっ!人見やぶれましたっ!日本期待の人見絹枝、まさかの準
  決勝敗退…」
  ドーッとどよめきが起こっている場内。
  人見の顔 ― みるみる青ざめてくる。
  その場面、ロングになり ―
 N「この時から、人見の苦闘が始まる」

5.宿舎
  コーチと男子選手たちが集まっている。
  重苦しい雰囲気。
  男Aが戻ってくる。
 コーチ「どうだった、人見君は?」
 男A「(首を振り)部屋に閉じ込もったきり、出てきません」
 コーチ「…」
  一同。
 男B「(一人だけ合点がいかぬ様子で)どうしたんですか、みんな。たがが100mで
  負けたくらいで…」
  見る一同。
 男B「オリンピックはまだ始まったばかりじゃないですか。200mだって走り幅跳び
  だって三段跳びだって、人見さんの実力からすれば、まだまだいくらでもチャンスは
  あるはず…」
 男A「それがないんだよ」
 男B「ないって?」
 コーチ「女子は男子と違って競技種目が極端に少ないんだよ。100m、800m、4
  00mリレー、走り高跳び、円盤投げの五種目しかないんだ」
 男B「エ?それじゃ…」
 コーチ「そう。人見君が活躍できるのは、100mしかなかったんだよ」
 男B「(男Aに視線を移して)それで…」
 男A「(うなずく)せめて走り幅跳びでもあったら…」
 コーチ「…」
  一同 ―。
 男C「どうです、コーチ。思いきって800mに出してみたら。確か、エントリーだけ
  はしておいたはずですよね?」
 コーチ「馬鹿なっ!あれは100mで上位入賞したあとに気楽に走ってみようってこと
  で…実際には人見君、800mは一度も走ったことがないんだぞ」
 男C「しかし人見さんの力からすれば、もしかしたら六位入賞くらいはできるかもしれ
  ないじゃないですか」
 コーチ「(見る)陸上はそんなに甘いもんか?ポッと出で、それで世界に通用するほど
  甘いもんか?」
 男C「…」
 コーチ「そんなことは君たちが一番よく知っているはずだろう。もしまた惨敗してみろ。
  どんなに彼女を苦しめることになるか ― 私にはできん。絶対にできない」
  と、そこに、
 声「私、出ます」
  見る一同。
  人見が入口の所に立っている。
 人見「(真っ青な顔で)私、800mに出ます」
 コーチ「しかし…」
 人見「(涙をこぼしながら)出させて下さいっ!そうじゃないと…そうじゃないと…」
  泣き顔を押さえて、
 人見「私、このままじゃ、日本に帰れませんっ!」
  ドキッと見る一同。
 一同「…」
  人見 ― 。
   *
  その場面に歓声、かぶってきて ―、

6.スタジアム
 アナ「いま、一周400mを回って人見は六位!人見は六位ですっ!遅れていますっ」
  力走している各選手たち。
  人見。
 アナの声「予選はどうにか通過したものの、やはりムリだったのかっ?!」
  見ているコーチ。
 ― 何を言う。六位なら上出来だ。入賞できるじゃないか ―
 記者「しかしそれじゃ国民は納得しませんよ」
  ムッと見るコーチ。
   *
  フィールド内には、競技(三段跳び)の合間に人見を見守っている男A、Bがいる。
  懸命の力走を続ける人見。
  それをじっと見ている男A。
  その顔にかぶって ―
 ― 誰だろう、オリンピックは参加することに意義があるなんて言ったのは… ―
  懸命に走り続ける人見の姿。
 男Aの声「こんなに辛い大会はないじゃないか。こんなに辛い大会は…」

7.回想(宿舎)
  深夜。
  見回りに回っているコーチ。
  男Aが人見の部屋の様子を伺っている。
 コーチ「おい、どうした?」
 男A「(見る)いえ、すすり泣く声が聞こえたもんですから…」
 コーチ「人見君か?」
 男A「はい」
 コーチ「明日は決勝だというのに、まだ寝てないのか?」
 男A「みたいです」
 コーチ「…」
  コーチ、ドアをノックしようとするが ― 、
  やめる。
 コーチ「…」
 コーチ、男Aを促して、行く。

8.同・人見の個室
  ひざを抱えて顔をうずめている人見。
  微かに体が震えている。
  その姿を照らし出している月明り。
  その冷たく澄んだ月にかぶって、
 声「どうしてあんなにまでして戦おうとするんでしょうか?」

9.同・中庭
  そこにあるベンチに腰掛けているコーチと男A。
 男A「そこまで人見さんが勝ちにこだわるのはなぜですか?何がそんなに彼女
  を追いつめているんですか?勝負は時の運です。負けることだってあります
  よ。しょうがないじゃないですか」
 コーチ「しょうがないか…彼女はそれじゃなすまないと思ってる」
 男A「そりゃ日本中の期待を一身に集めてたわけですから、そうかも知れませ
  んが、しかし…」
 コーチ「いや、それだけじゃない。人見君には人見君なりの理由があるんだ」
 男A「理由?何ですか?」
 コーチ「(見る)君は、女が陸上に打込むことがどれほど大変なことか、考え
  たことがあるか?」

10.イメージ
  寺尾姉妹。
  寺尾正(17歳)
  寺尾文(17歳)
 N「寺尾姉妹 ― 当時日本中を熱狂させた双子の美人ランナーである。その実力
  は世界クラスで、特に妹文は二年前の神宮体育大会で100m12秒7の世界
  記録を出していたほどだった。
   加えてその美ぼうのため、新聞小説のモデルにもなったが、それが父親の
  怒りに触れ、人見の再三の説得にもかかわらず、オリンピック出場はもちろ
  ん、ついにはわずか17歳にして陸上界から姿を消すのである。
   日本女子陸上界のれい明期に現れた、まさしく幻の名スプリンターであっ
  た」

11.宿舎・中庭
 コーチ「もし寺尾たちが一緒に参加していたら、ここまで思い詰めることはな
  かったと重う。しかし寺尾は来なかった」
  男A。
 コーチ「寺尾だけじゃない。ついには誰もついて来なかった」
 男A「…」
 コーチ「人見はいつも一人だった。一人で日本女子陸上界を切り開こうとした。
  たった一人で海外遠征を行ない、たった一人でオリンピックにも来た。そし
  てずっと思ってたはずだ。ここで金メダルを取れば、すべてが変わると。自
  分も、回りも ― 」
  間。
 コーチ「そう信じてたはずだ」
 男A「しかし、敗れた ― 」
 コーチ「(うなずく)」
 男A「実力的には圧倒的優位にありながら、しかし、敗れた ― 」
 コーチ「(うなずく)」
 男A「だから…」
 コーチ「(うなずく)」
 男A「…」
 コーチ「…」
  間。
  二人を照し出す澄み切った月夜 ― 。

12.スタジアム
  朝。

13.同・控え室
  試合前の人見。コーチのマッサージを受けている。
  黙々とマッサージを続けているコーチ。
 人見「どうしたんですか、さっきから深刻な顔して」
 コーチ「え?」
 人見「私なら大丈夫ですよ。」
 コーチ「(見る)」
 人見「私ならダイジョウブ。一応、作戦も考えてますし」
 コーチ「作戦?」
 人見「ええ。相手はみんな800mのスペシャリストばかりです。まともにや
  ったんでは勝てません。だから私は、700m走のつもりで走ります。そう
  すれば、700までは勝負になるでしょう?」
 コーチ「あ、ああ。でも、あとの100mはどうするんだい?」
 人見「それはその時になってみないとわかりません」
 コーチ「え?」
 人見「だけど私は100mのスペシャリストです。敗れたとはいえ、まがりな
  りにも世界記録保持者です。スプリントなら負けない自信がある。 ― どん
  なに苦しくても、どんなに辛くても、最後は体が自然に動いてくれると思い
  ます。体が自然に100mの走りをしてくれると思います。(コーチを見て)
  そう信じて、走るつもりです。」
 コーチ「…」
 ― そんなムチャな… ―
  とそこに係員が来て、
 係員「時間です」
  人見、厳しい顔つきに変わり、グランドへ向う。
  その背中を見ているコーチ。
  フト、
 コーチ「人見君」
  振り向く人見。
 人見「はい?」
 コーチ「(笑顔を見せて)その作戦なら、いけるかもしれないぞ」
 人見「(ちょっと笑顔になり、小さく)はい」
  そこに再び大歓声、かぶってきて ― 、

14.グランド
  力走を続けている人見。
  人見、第一、第二コーナーから徐々にスピードを上げ始める。
  見ているコーチ。
 ― いよいよ勝負か? ―
 アナの声「オヤ?人見、コーナーから徐々にスピードが上がってきたぞっ」
  コーナーを抜けて直線コースに入った人見はさらにスピードを上げる。
 「おお!」
  と記者たち。
 「オオ―っ!!」
  と沸き上がる場内。
 アナの声「(興奮してくる)人見、スゴイッ!人見、スゴイッ!アッという間
  に五位、四位も抜いて…今、三位の選手も抜いたあ!」
 「ワーッ!!」
  と沸き上がる大歓声。
 記者「(興奮してくる)いけーっ!人見ーっ!」
  興奮している日本選手団。
 「いけーっ!いけーっ!」
 アナの声「グングン伸びるっ!グングン伸びるっ!人見、二位のゲンツェルも
  とらえるかっ!?残り200mっ!!」
  心配そうに見ているコーチ。
 ― 問題はここからだ ―
  見ている男A。
 ― 一度だけ奇跡を! ―
  力走する人見。
  歯をくいしばり、必死のその顔にかぶって、
 ― 最後の…勝負っ!! ―
  人見、グンッと二位のゲンツェルに迫る。が、その瞬間 ―、
  ゲンツェルのスパイクが人見の膝に当る!
 「アッ」
 「アッ」
  と見るコーチ、男A。
  人見、ガクンと態勢を崩す。
 アナの声「どうした、人見っ!急に遅れたあ!」

15.暗闇
  その中を一人取り残されたように後退していく人見。
 N「その瞬間、目の前が真っ暗になり、意識を失ったと、後に人見は語ってい
  る」
  人見の、その苦痛に歪んだ表情。
  そこにかぶって ―

16.回想
 コーチ「700m走のつもりで?後の100mは?」
    *
 人見「体が自然に動いてくれると思います。私はスプリンター…最後の直線は
  体が自然に100m走をしてくれる、そう信じて走りますっ」
    *

17.暗闇
  絶望の中で、人見、キッと顔を上げる。
  再び態勢を立て直し、
  次の瞬間 ―、
  その疲れきった体が、一気に爆発するっ!

18.放送席
 アナ「(思わず身を乗り出し)オオーッ、スゴイッ!人見、猛然とラストスパ
  ートっ!!」

19.トラック
  猛然とスパートしていく人見。
 アナの声「今、再び三位を抜いて ― 」
  人見。
 アナの声「二位をとらえたっ!」
    *
  男A。
 ― 抜いたっ ―

20.観客席
 「オオーッ」
  思わず立ち上がる人々。

21.日本選手団の大声援
 「人見ーっ!」
 「がんばれーっ!」

22.最後の直線
  疾走する人見。
    *
  トップのラトケ(独)、チラッと後を見た瞬間、その顔からスーッと血の気
  が引く。
  人見が圧倒的迫力で迫ってくる。
    *
  懸命に逃げるラトケ。
    *
  必死に追い込む人見。
  15mほどあったトップとの差がグングン縮まる。
    *
  総立ちの場内。
    *
  懸命の応援団。
    *
  ゴール前 ― 、
  必死のラトケ。
  必死の人見。
  目前のテープ。
  人見。
  ラトケ。
  人見。
  観客の興奮。
  だが ― 、
  人見、わずかに及ばず二位でゴール!
  沸き上がる歓声と嘆声。
    *
  人見とラトケ、ゴールと同時に二人とも崩れるように倒れ込む。
  駆け寄る両国選手団。
  ラトケ、肩につかまりながらヨロヨロと行く。
  が、人見の方はグッタリと意識を失っている。
 コーチ「人見君!人見君!」
  人見の顔 ― それがそのままズリ下がり ―

23.グランドの片隅
  次第に意識を取り戻してくる人見。
  ボンヤリとした意識の中で目を開く。
  と、ポールにドイツとスウェーデンの国旗とともに日の丸が上がっていくの
  が目に入ってくる。
  しばらくボンヤリそれを見ている人見。
  が、ハッと気づき、ガバっと上体を起こす。
 声「気が付いたようだね、人見さん」
  見る人見。
  コーチたちがそばについている。
 人見「あ、あれは…あの日の丸は?」
 男A「君が上げた日の丸だよ」
 コーチ「2分17秒6。堂々の世界新記録で二位になったんだ」
 人見「…」
  間。
  人見 ― その瞳から、大粒の涙が、スーッと頬を伝わる。
  その場面がロングになり ―

24.ポールに旗めく日の丸
 N「人見絹枝 ― まさに、日本が生んだ奇跡のスプリンターであった。
   が、この激闘のあと、人見はわずか三年で他界する。24歳7ヵ月。あま
  りにも惜しまれる死であった。
   日本女子陸上の栄光は人見とともに始り、そしてわずか数年で、人見とと
  もに終るのである。
   そして ― 」

25.港
  大勢の人達で埋めつくされている。
  その中を、タラップに姿を現す人見。
  とたんに沸き起こる大歓声。
  人見 ― 上気した笑顔で、首にかけられた銀メダルをかざして見せる。
  歓声、一層盛り上がって ―
 N「人見が悲壮な決意で勝ち取ったこの銀メダルこそ、日本女子陸上史上、唯
  ひとつのメダルなのである ― 」


 (終)


解説


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