「栄光なき天才たち」
― 水泳王国の伝説 古橋広之進 ―
作.伊藤智義
1.海辺
夏。
海水浴客であふれている。
ある若いカップル。
男 ― 寝そべって日光浴をしている。
女、その男の腕を引っぱり、
女「ねえ、いつまでも寝ていないで、少しは泳ぎましょうよ」
男「(めんどくさそうに目を開け)バカだなあ。海っていう所は日光浴のために来るん
だぜ。泳ぐなんてイナカもんがすることだよ」
男、再び目をつぶってしまう。
女「もう!」
*
N(ナレーション)「夏。水泳シーズン。
現在の世界競泳界(男子)は、まさにアメリカの独壇場であるが、かつて日本の時
代があったことをご存じだろうか」
2.プール
― 昭和7年 ロサンゼルスオリンピック ―
力泳する日本選手。
N「昭和3年、第9回オリンピック(アムステルダム)において金メダル一個を獲得し
世界のトップランクに登場した日本水泳陣は、昭和7年、ロサンゼルスで行なわれた
第10回オリンピックで、背泳100mで金銀銅を独占したのを初め、当時は六種目
(100m、400m、1500m自由形、100m背泳、200m平泳、800m
リレー)しかなかった競泳種目のうち、400m自由形を除く五種目で金、総メダル
数11を獲得し、世界中をアッと言わせた」
3.メインポール
日の丸が上がる。
N「続くベルリンオリンピック(昭和11年)においてもアメリカを圧倒し、まさに水
泳界は日本の時代を迎えていた。
おりしも次期オリンピックは東京。
だが不運にも、戦争のため中止」
4.焼け野原
N「そして敗戦 ― 」
5.その中にあるプール
N「しかし水泳日本は死んではいなかった」
泳いでいる若者たち。
N「敗戦から続くその暗黒時代に、水泳王国日本史上、最大にして最後のスーパースター
が登場する。― 古橋広之進。この若者である」
若者のひとり、泳ぎ終わり、顔を上げる。
6.街
日暮れから夕闇へ ― 。
真っ暗になっていく街にあって、対照的にただ一ヶ所だけ、照明に照らしだされ、輝
きを増してくる所がある ― 神宮プール。
続々と詰めかけてくる人々。
高まる歓声。
次第にクローズアップしてきて ―
7.超満員に埋まった神宮プール
― 日本選手権 ―
スタート台に立っている若者。
― 古橋広之進20歳 ―
「古橋ーっ!!」
声援がとぶ。
アナ「さあ、いよいよ400m自由形決勝が始まります。注目は古橋。1500mに続
いて世界一速い男になれるかっ?!敵は横に並んでいる七人だけではありません。今、
時を同じくして遠くイギリスはロンドンのオリンピックプールでも、400m自由形
の決勝戦が行なわれようとしているはずですっ!!」
8.オリンピックプール
スタート台に立っている各国の選手たち。
― ロンドンオリンピック ―
9.二つの場面が重なり ―
― 昭和23年8月8日 ―
10.スターター
「位置について ― 」
位置につく選手たち。
「ヨーイ!」
選手たち。
バン!!
古橋、
そしてオリンピック選手たち。
一斉にスタート!
と、突如沸き起こる大声援。
11.神宮プール
アナ「いよいよスタートしましたっ!世界一はオリンピック優勝者かっ、それとも日本
選手権者かっ?!」
12.会議室(回想)
― 日本水連・6月 ―
男Aが電話に出ている。
それを見守っている一同。
田畑日本水連会長。
男A「(電話に向かって力なく)そうですか…どうも(切る)」
男A「(会長に)日本のロンドンオリンピック不参加かが正式に決まったそうです」
会長「そうか…」
一同、落胆。
男B「どうして日本だけが…」
男C「日本だけじゃないさ、ドイツだって…」
男B「でもイタリアは参加が認められたんだろ?」
男C「イタリアは別だよ」
男A「マッカーサー元師もずいぶん尽力してくれたそうだか、いかんせん開催国のイギ
リスが猛反対なんだそうだ…」
渋い表情になる男B。
一同。
会長「(低く)それならそれでいい」
見る一同。
会長「(顔を上げ、ハッキリと)それならそれでいいじゃないか。日本を世界の舞台に
上げないというならそれでいい。実力で、はい上がっていこうじゃないか。世界一は
アメリカか日本か、実力で示してやろうじゃないかっ」
一同「…」
会長「(男Aに)オイ、オリンピックの水泳の日程はどうなってる?」
男A「あ、はい、え…と、8月5日から10日までのはずですが…」
会長「よし!今年の日本選手権はオリンピックの日程にぶつけてやろう!」
その決意を秘めた表情に、大声援かぶってきて ―
13.神宮プール
大声援の中、泳いでいく選手たち。
古橋、はやくも頭ひとつリード。
アナの声「古橋はやくも頭ひとつリード!強い!断然強い!しかし敵はここだけではあ
りません!問題はタイムですっ!」
14.役員席
声「そうだ。記録が大切なんだ」
緊張して見ている会長。
― 世界一のスイマーが日本にいることを、世界の水泳界にとって日本の存在が無視で
きないということを、それを示すこと。それが大切なんだ!それが日本水泳界を世界
の舞台に復帰させる早道なんだ。がんばれ、がんばってくれ!古橋!! ―
15.プール
力泳を続ける古橋。
アナの声「今、古橋、100mのターン!」
16.役員席
会長「(隣の男Aに)オイ、古橋が勝つにはどれくらいのタイムが必要なんだ?」
男A「4分40秒をきれば、おそらくはオリンピックの優勝タイムを上回ることができ
ると思いますが、しかし、古橋が真の世界一の実力を示すためにはやはり、ジャニー
(仏)のもつ4分35秒2の世界記録を破ることが必要です。そのためには最初の100
を1分3秒台で入ってくれないと…」
とそこへ、男B、かけ寄ってくる。
男B「100のラップがでましたっ!1分5秒0ですっ!」
会長「(見る)5秒0?」
男A「遅いっ!」
会長、思わず立ち上がり、叫ぶ。
会長「古橋っ!がんばれっ!!」
17.プール
力泳を続ける古橋。
アナの声「オリンピックに参加できなかった無念をはらすかのようにひとかき、ひとか
き、力強いストロークを続ける古橋!水泳関係者の誰もが世界No・1の折り紙をつ
け、一度は世界を相手に戦わせてみたいと願う日本の至宝!今、150mをすぎ…」
アナの声、次第にかすれていき、
声「(かぶる)オリンピック不参加が正式に決まったよ…」
18.日大プール(回想)
そのプールサイドに座っている古橋と部員A、B。― 落胆している。
古橋「そうか…決まったか…」
部員A「ああ」
古橋「やりたかったな」
部員A「ああ」
古橋「自分の力を、試してみたかったな」
部員A「ああ」
古橋「…」
間。
古橋「そうか…決まったか…」
古橋、ふと立ち上がる。
部員A「オイ、どこ行くんだ?」
古橋「練習だよ。もう少し泳いでくる」
行く古橋。
その後ろ姿をしばし見ている部員A、B。
部員B「古橋のやつ、相当ショックみたいだな」
部員A「そりゃそうだよ」
部員B「でもいいじゃないか、水泳はタイム競技なんだから、世界新でも出せば世界一
の実力が示せる」
部員A「(見る)そりゃ違うよ」
部員B「違う? ― 何が?」
部員A「記録はいつか破られる。どんなにいい記録を出しても、どんなにスゴイ記録を
出しても、記録というものはいつか破られる。記録とはそういうものだろ?」
部員B。
部員A「そして破られてしまえば、それまでだ。以前の記録保持者の名前なんか、いつ
の間にか忘れ去られてしまう。水泳の記録なんか、どんなにスゴイ大記録でも、もっ
て三年だよ。それだけたてば、もうおしまいさ」
部員B「…」
部員A「ところがオリンピックは違う。オリンピックの優勝者の名は、大げさに言えば、
永遠に記録されるからな」
部員B「…」
部員A「(見る)水泳選手ってそうじゃないか?オレだって、おまえだって」
部員B「(見る)?」
部員A「最後の目標はやっぱりオリンピックなんだよ。オリンピックに出ることを夢見
て…オリンピックで勝つことを夢見て…」
部員A、熱くなってくる。
部員A「オリンピックってさあ、やっぱり本当に強い者だけが出るべきじゃないか?
だいたいさあ、オレたちが戦争始めたわけじゃないんだぜ!えっ!!そうだろ?」
部員B「(あわてる)オイオイ、あんまり興奮するなよ」
部員A「(視線を落とし)オレはなんだか、無性に腹がたつんだ…何が民主主義だよ…
一生に一度あるかないかのチャンスをつぶしやがって…」
部員B「(見る)そうか…おまえも一応、オリンピック候補に入ってたんだもんな…」
部員A「(見る。小さく笑い)でもさあ、オレ思うんだけど、せめてアイツぐらいは、
大手を振ってオリンピックに出てもいいんじゃないのかなあ…」
プールに目をやる部員A、B。
プール ― 黙々と泳いでる古橋の姿 ―
19.公園(夕暮れ)
ベンチに座っている古橋。頭の後ろで手を組み、ボンヤリしている。
向こうの方から声が聞こえてくる。
声「関係ねえよ、そんなことは。オリンピックに出ようが出まいが、そんなことは全然
関係ねえ」
ドキッとして見る古橋。
勤め帰り風の、くたびれた中年男D、Eが歩いてくる。
男D「オレは行くぜ。女房を質に入れても今度の大会、古橋を見に行くぜ」
男E「ああ、オレだって。なんてったって今の日本で世界を相手にまともに戦えるのは、
水泳しかねえもんな」
古橋、目の前を通り過ぎていく二人の背中をボーッと見送る。
古橋 ― その口元が微かに笑ったかと思うと、パン、と立ち上がり、
古橋「よーし、やるぞっ!」
そこに大声援、かぶってきて ―
20.神宮プール
力泳を続ける古橋。
21.スタンド
盛んに声援を続ける応援席。
その最前列に、例の男D、Eがいる。
熱狂的な応援をしている男D。
対照的に男E、ボンヤリ男Dの顔を見つめている。
男E「(ボソッと)おまえ、ホントに女房に逃げられたんだってな」
男D「(ドキッとみる)え?」
男E「おまえんトコじゃ、食えねえってことか…」
見ている男D。が、
男D「(吐き捨てるように)関係ねえよっ!」
再び大声を張り上げ、
男D「いけ!いけ!もっととばせーっ!!古橋ーっ!!負けたらただじゃおかねえぞー
っ!!」
22.プール
しかしその声も回りの大声援にかき消されて古橋の所までは届かない。
古橋、ターン。
アナ「古橋、今、200のターン!」
23.役員席
緊張して見ている会長と男A。
男B、少し離れた所に現れ、叫ぶ。
男B「200のラップ、2分13秒8!」
ハッと見る会長と男A。
一瞬表情が険しくなる会長。
男A「(Bに叫ぶ)ロンドンの方はどうなってるっ」
男B「まだ連絡がとれませんっ!」
24.控え室
男Cが電話を手に、イライラしている。
相手が出るのを待っているのだ。
男C、突然ハッとなり、電話に叫ぶ。
男C「もしもし! ― うん、聞こえてるっ ― えっ? ― 終った?優勝はっ?」
あわててメモをとる。
男C「 ― ウン。アメリカのスミス…タイムは? ― 4分…」
25.役員席
男C、かけてくる。
男C「ロンドンオリンピックの400m決勝、終わりましたっ!」
見る会長と男A。
男C「優勝はアメリカのスミス、タイムは4分41秒0!」
会長「41秒?」
男A「(パッと顔が輝き)勝てるっ!」
26.場内放送
「オリンピック速報をお伝えします…オリンピック速報をお伝えします …」
「ん?」と一瞬静まり、耳を澄ます人々。
27.神宮プール全景
場内放送「ロンドンオリンピック400m自由形優勝はスミス、アメリカ…タイムは…」
28.神宮プールを取り巻いている数万の人々
場内放送「4分41秒0…」
「オオー」と、歓喜とも驚きともとれない声が上がる。
続いて起こるざわめき。
どこからか、
「古橋はどうなったーっ!勝ったのかー?!」
の声が上がる。
「そうだっ!古橋はどうなったんだっ!」
「レースはっ?!」
「古橋はっ?!」
と、中に入れなかった人々が入場口に殺到する。
必死に制する警備員たち。
「バカヤローッ!中に入れろっ!!」
警備員「もう入れないんですっ!押さないで下さいっ!」
「うるせえっ!どけっ!」
ドン、と突かれる警備員。
警備員「(カッとなり)押すなって言ってんだろっ!バカヤローッ!!」
「なんだとーっ!」
「やっちまえっ!」
乱闘が始まる。
大混乱の中、興奮した男がひとり、門にしがみつき、叫ぶ。
「古橋ーっ!!負けるなよーっ!!」
29.プール
懸命の力泳を続ける古橋。
アナの声「古橋強いっ!断然強いっ!他を大きく引き離して完全に独泳っ!!目標タイ
ムはスミスの4分41秒っ!!そして世界記録の4分35秒2っ!!どこまでいける
か古橋っ!今、300のターン!」
鐘が鳴る中、ターンする古橋。
30.役員席
席をはずしていた男Aが戻ってきて、会長の隣に座る。
男A「(上気した顔で)300のラップが3分24秒0です!勝てます!スミスに勝て
ます!」
会長、厳しい顔つきでにらむ。
会長「スミスなど関係ないっ!」
男A「えっ?」
会長「古橋が勝つことは最初からわかっていたはずだっ!問題はタイムだっ!世界記録
だっ!」
男A「しかしっ、世界記録を出すためには最後の100を1分11秒底底で泳がなけれ
ばならないっ!ムリですっ!」
会長「ムリじゃないっ!やつが、古橋が、本当に世界一のスイマーならやれるっ!絶対
やれるっ!!」
男A「…」
会長、厳しい視線を古橋に戻す。
― いや、やってもらわなくちゃ、ならんのだ!… ―
31.プール
懸命に力泳を続ける古橋。
アナの声「古橋、最後のターン!残り50m!」
ターンする古橋。
と突然、横一線に外国選手が現われ、古橋と同時に一斉にターン!
と同時に場面、神宮プールからオリンピックプールに変わる。
様々な国の大声援がとびかう中、横一線になって競い合う古橋と選手たち。
古橋。
― 負けてたまるかっ ―
最後の力を振りしぼる古橋。
圧倒的迫力で他の選手たちをグングン引き離していく。
32.放送席
「オオーッ!」
と、思わず立ち上がるアナウンサー。
アナ「古橋、ラストスパート!グングンスピードをあげていくっ!スゴイ…全くスゴイ
ッ!!残りあと20m!!」
33.最後の力泳 ― 古橋
34.総立ちの場内
35.古橋
36.会長
37.古橋
38.男D
39.古橋
アナの絶叫。
「残り10m!!5m!!今、古橋、一着でゴールイン!!」
沸き上がる大歓声。
古橋 ― 。
アナ「さあ、注目のタイムは?!」
* *
シーンと水を打ったように静まり返っている場内。
会長。
男D。
まだ水の中にいる古橋。
場内放送「ただいまの結果、一着古橋君、日本大学。時間…」
緊張している人々。
場内放送「4分(観客の顔A)、33秒(観客の顔B)、4(観客の顔C)。世界新記
録です…」
(以下、急激にスローモーション)
パン!と手を叩き、思わず立ち上がり、天高くガッツポーズをとる男D。
思わず涙が浮かび、その口が、
「やったあーっ!!」
と叫ぶ。
*
歓喜の観客A。
観客B。
観客C。
観客D。
*
手をとり合って喜ぶ会長と男A。
*
古橋 ― 。
40.神宮プール・鳥瞰図
地の底から沸き上がるような大音声が神宮の空に突き抜けていき ―
画面、そこでストップ。
N「戦後初めて、日本国中が沸き返った一夜であった。
古橋は1500m自由形でも、オリンピック優勝タイム19分18秒5に対して、
従来の世界記録を21秒も短縮する驚異的な世界記録18分37秒0で優勝、その実
力の差をまざまざと見せつけた。
*
翌昭和24年、日本は念願かなって国際水連復帰を許された ― 」
41.澄みきった青空
N「世界に飛び出した古橋の勢いは、すさまじかった。“フジヤマのトビウオ”と呼ば
れ、世界中を驚嘆の渦に巻き込む」
42.力泳する古橋のカットの数々
N「400m、800m、1500m自由形の三つの世界記録を保持し(800mリレ
ーを加えれば四つ)、出した世界新が実に三十数回。まさに歴史上、まれにみる天才
スイマーであったことは間違いない。
*
だが、そんな“無敵古橋”も、ついにオリンピックとは縁がなかった」
43.入場行進する選手団
― 昭和27年ヘルシンキオリンピック ―
N「四年後のヘルシンキオリンピックに400m自由形で出場した古橋には、すでに世
界と戦う力は残っていなかった」
44.プール
最後尾を懸命に泳いでいく古橋。
アナの声「(悲痛に)古橋がんばれっ!古橋がんばれっ!」
懸命になって水をかく古橋。
懸命に ― 。懸命に ― 。
しかし、かけどもかけども、どんどん、どんどん引き離されていく。
アナの声「(悲痛にかぶる)古橋がんばれっ!古橋がんばれっ!…日本のみなさん、古
橋を責めないで下さい、古橋は…」
N「八着と惨敗した ― 」
45.誰もいなくなった無人のプールに ―
N「これをもって、20年間にわたって世界に君臨し続けた水泳王国日本の伝説は、幕
を閉じる ― 」
穏やかに搖れる水面。
そこに ―
圧倒的迫力でよみがえってくる大歓声。
46.神宮プール(回想)
歓喜する大観衆の中
最高の表情を見せる古橋。
N「古橋広之進 ― 水泳史上、最大級のスーパースター。
そして、最も不運な、スーパースターであった…」
(終)