「栄光なき天才たち」
― 悲しき青年数学者 ニールス・ヘンリック・アーベル ―
作.伊藤智義
1.三人の数学者の横顔
K・F・ガウス ― 1777〜1855年、ドイツ ―
A・L・コーシー ― 1789年〜1857年、フランス ―
E・ガロア ― 1811〜1832年、フランス ―
N「19世紀初頭、数学は大きく変貌しようとしていた。現代数学の胎動である。
この時期の極めて重要な数学者として四人の名前があげられる。数学の帝王ガウ
ス、コーシー。そして数学史上最も悲劇的な天才だといわれる二人の若者、ガロア
と…」
2.アーベルの横顔
N・H・アーベル
― 1802年〜1829年、ノルウェー ―
N「そして今日紹介するアーベルである」
3.雪の街
― オスロ(ノルウェー) 1828年 冬 ―
4.4ボロアパート
寒さに震えながらも黙々と机に向かって勉強している青年 ― アーベル(26歳)。
アーベル、時おり咳き込んだりしている。
そこに、
「アーベル、いるかい?」
と友人A、B、入ってくる。
激しく咳き込むアーベル。
友人A「アーベル!どうしたっ」
アーベル「大丈夫、軽いカゼだよ」
友人B「勉強もいいけど、あんまりムリするなよ。おまえ、あんまり丈夫な方じゃな
いんだから」
アーベル「ハハ…でもぼくには数学しか取り柄がないからな」
そこに、アーベルの母、来る。
母「ニールス、今月の生活費、もらいに来たよ」
友人A、B、見る。
友人A「おばさん。いい加減、アーベル一人にすがるのやめなよ。少しは自分で働い
たらどうだい?」
母「うるさいね。あんたには関係ないだろ」
友人A「(ムッとくる)あんたは考えたことあるのか、一体どれほどの才能をあんた
たちが食い潰しているのかをっ!」
母「うちは父親がいないんだ、息子が母親を養うのは当然じゃないかっ!」
友人A「母親母親って、毎日遊びほうけていて何が母親だっ!アーベルはな、これか
らノルウェーの、いや世界の数学を支えていく…」
アーベル「いいんだ、ケイルハウ。やめてくれ。(母に)そこの引出しに家庭教師の
月謝が入ってるから」
母、引き出しを開けて月謝袋を持ち出すと、そそくさと出ていく。
バタンとしまるドア。
友人A「…」
アーベル「(寂しそうに小さく笑う)」
友人B「母親だけじゃないんだろ?兄弟の面倒だって…」
アーベル「しかたがないよ。稼げるものが支えなくっちゃ…」
友人A「何がしかたがないんだ!このままじゃおまえの方がまいっちゃうぞ。おまえ
ひとりが犠牲になることはないんだ」
アーベル「犠牲って大げさな…」
友人A「犠牲だよ。このままじゃおまえ、身動きがとれなくなるぞっ」
アーベル「そんなことはないよ、ぼくは…」
と言いかけて激しくセキ込むアーベル。
友人B「おい、大丈夫か?」
アーベル「(セキを抑えて)ケイルハウ。ぼくは今の生活が辛いだなんて思ったこと
はないよ。本当だ。家族が足かせになるなんて一度だって…金は、実力さえあれば
いつか自然についてくる。そうだろ?」
友人A「そりゃそうかもしれんが…」
アーベル「ぼくは数学の勉強さえつづけられれば十分なんだ。数学で生活できる地位、
教授のポストさえ手に入ればそれでもう…」
友人A「だけど、それすらうまくいかないじゃかないか」
アーベル「今はね。だけどまだまだぼくたちは若い。これからいくらだってチャンス
はあるさ」
友人B「(ちょっと笑い)おまえは強いな。その自信はどこから来るんだい?」
アーベル「悪い方にばかり考えてちゃ、進歩はないさ。そうだろ?」
友人A「(あきれて笑ってしまう)そうだな」
消え入りそうな暖炉。
友人Bが数少ないマキをくべに立つ。
友人B「ところでアーベル、クリスマスはどうするんだ?数学の勉強もいいけど、部
屋にばかり閉じ込もってるのは良くないぞ。よかったら、うちに来ないか?みんな
集まるんだ」
友人A「そうだよ。クリスマスぐらいパーとやろうぜ」
アーベル「うん…でも、せっかくだけどクリスマスはフロランド(ノルウェーの地方
都市)へ行くつもりなんだ」
友人B「フロランドへ?」
アーベル「うん。婚約者がいるんだ。クレリーっていって―」
友人A「ああ、住み込みで家庭教師をしているとかいう?」
アーベル「うん。そこの家がぼくを招待してくれてるんだ」
友人B「でもフロランドといったらここから200kmもあるんだぞ。ソリを使って
も数日はかかる」
アーベル「平気さ。クレリーが待ってるんだ」
5.雪に埋まった街路
セキ込みながらソリに乗り込むアーベル。
友人B「おい、本当に行くのか?」
友人A「ムリするなよ。もう少し体調が良くなってから行ったって…」
アーベル「ありがとう。でもぼくなら大丈夫。それじゃ、メリークリスマス!」
出発するソリ。
友人A「気をつけていけよーっ!」
小さくなっていくソリ。
見送っている友人A、B。
友人A「大丈夫かな、あいつ」
友人B「(見る)」
友人A「口では辛くないと言ってるけど、ムリしてでも婚約者の所に行こうとするの
は、相当まいっている証拠じゃないかな」
友人B「心の支えを求めてるってわけか」
友人A「(うなずく)そこまで追いつめられてるんだと思う。教授の採用も正式に拒
否されたっていうしな」
友人B「だけど、どうしてアーベルは、教授になれないんだろう?ドイツに行ってき
たオレの知り合いの話じゃ、アーベルの名前は向こうでも知られてきてるって…」
友人A「実力的には申し分ないと思う。ノルウェーじゃおそらくトップ、ヨーロッパ
でもかなりのもんだろう。ただ…」
友人B「ただ?」
友人A「一番の自信作がパリ科学アカデミーに相手にされなかったらしい」
友人B「(見る)」
友人A「数学といえばパリ。パリに無視されたんじゃ…」
*
ソリを走らせていくアーベル。
N「前年まで二年間、アーベルは国費留学生としてヨーロッパ各地を回っていた」
6.応接室
― ベルリン ―
N「まず訪れたのはベルリンであった。そこでクレーレという数学愛好家に出会う」
頬を紅潮させ、少しドギマギしながら話をしているアーベル。
アーベル「…今の数学は基礎が全く確立されていない思うんです。それでぼくは…」
聞いている身なりの良い男 ― クレーレ。
N「アーベルに大きな魅力を感じたクレーレは、自分の刊行している数学雑誌にアー
ベルの論文を掲載させるのをはじめ、以後、アーベルのために尽力することになる。
アーベルにとって、留学中唯一の収穫だった」
7.論文を書いているアーベル
― パリ ―
N「次いで訪れたのは数学の中心地パリ。そこではアカデミーに提出する論文の作成
に専念する」
ペンを置き、一息つくアーベル。
アーベル「よし、できた」
N「この論文こそ、後に『青銅よりも永続する記念碑』とうたわれ、後代の数学者に
500年分の仕事を残してくれたと言われる不滅の大論文であった」
8.会議室
― パリ科学アカデミー ―
教授A「次ぎにノルウェーのアーベル氏によって提出された『超越関数のなかの非常
に拡張されたものの一般的な性質に関する論文』だが、これの審査はコーシー教授
にお願いします。よろしいですね?」
コーシー「(無愛想に)はい」
9.街
クレーレ「そうか、コーシーが審査してくれるのか」
アーベル「はい。あの論文は自分で言うのもなんですけど、ちょっと自信があるんで
す。早くアカデミーの先生方の意見を聞いてみたい」
クレーレ「へえ、控え目なキミが珍しいな。でもコーシーといえばゲッチンゲンのガ
ウスと並ぶ大数学者だ。楽しみだな」
アーベル「はい」
その顔に自信がみなぎってきて、
― これですべてが変わる ―
N「しかし、この論文は読まれなかった」
10.研究室
コーシー、アーベルの論文を無造作に机の引き出しに入れる。
N「コーシーが机の引き出しに放り込んだまま、忘れてしまったのだ」
11.雪原を行くソリ
N「こうしてアカデミーに無視されたまま、失意のうちにアーベルは帰国する。故国で
アーベルを待っていたのは、相変わらずの貧困と過労だけであったのである
― 」
厚手の毛布にくるまって、ガタガタ震えているアーベル。
12.雪原の中の邸宅
― フロランド ―
人々が出迎えに出ている。
夫人「アーベルに会えるのはどれくらいぶりかしら?」
クレリー「もう半年以上になります、奥様」
夫人「楽しみね」
クレリー「ええ。…あ、来ましたよ、奥様」
アーベルのソリ、来る。
婚約者のクレリー、かけ寄っていく。
クレリー「アーベル!」
アーベル、姿を現すが、その顔は真っ青。
少しセキ込みながらも笑顔を作るが、
突然、
ブフォ!
と、ものすごい喀血。
「アーベル!!」
びっくりする人々。
13.居間
医者が来て、説明している。
医者「胸をやられています。絶対安静が必要です」
14.寝室
寝かされているアーベル。
が、眠ってはいない。
真っ青な顔で一点を凝視している。
― ぼくは、死ぬのか?ぼくは… ―
アーベル、ガバっとはね起きる。
― ぼくは… ―
激しくセキ込むアーベル。
15.居間
沈痛な人々。
クレリー、立ち上がる。
「どこへ行くの?クレリー」
クレリー「アーベルを見てきます」
16.寝室
クレリー、静かに入ってくるが、
クレリー「(驚いて)アーベル!」
アーベル、病床で懸命に論文を綴っている。
クレリー「何してるの、アーベル!寝てなきゃダメじゃないのっ!」
アーベル「ごめん、クレリー。せっかく楽しいクリスマスを二人で過ごそうと思った
のに…」
クレリー「何言ってるのよ。さ、寝てなくちゃ…」
アーベル「(ムリに笑って)大丈夫。ぼくは大丈夫…」
と言いかけて、激しくセキ込むアーベル。
チリ紙にペッとつばを吐くと真っ赤な鮮血。
クレリー「アーベル!」
あわてて抱き抱えようとするクレリー。
それを制して、
アーベル「今ぼくは、どうしてもやらなければならないことがあるんだ」
クレリー「そんなの、からだか良くなればいくらだって…」
アーベル「(懸命に)このまま、死ぬわけにはいかないんだ…」
クレリー「(ドキッと見る)…」
*
クレリーの見守る中、懸命に論文を綴っているアーベル。
N「医師から見離された肉体に鞭をあて、最後の精根をかけてかいているのは二年前
にパリ科学アカデミーによって『握りつぶされた』論文であった。自分の数学を信
じ、他の数学者に知ってもらいたいという一念であった」
アーベル、激しくセキ込み、イスから崩れ落ちる。
思わず駆け寄るクレリー。
アーベル「(もうろうとした意識の中で)これをベルリンのクレーレさんの所へ…」
クレリー「わかったわ。すぐに送ります。だから少し休んで」
アーベル「(安心したようにちょっと笑顔を見せ、うなずく)」
17.ベルリン
手紙を読んでいるクレーレ。
N「クレーレのもとに届けられたアーベルの論文は、ただちにクレーレの雑誌に掲載
された」
18.売られていくクレーレの『雑誌』
N「そして1829年3月、一通の手紙がパリ科学アカデミーに舞い込んだ」
19.パリ科学アカデミー
教授たちが総動員して、アーベルの論文を捜している。
手紙「(かぶって)…いまわれわれが生をうけているこの世紀の数学において、最も重
要なものであろうと思われるこの発見が、アカデミーへ提出されてから二年も経つと
いうのに、先生がたの注意を引かなかった、というのはどういうことなのでしょうか
…」
教授A、コーシーの机の引き出しを開け、ハッとなる。
そこにあるアーベルの論文!
教授A「あった…!(振り向き)コーシー教授」
コーシー「…」
*
N「この論文を境に、アーベルの立場は一変した」
20.ドイツ文部省
係官「当局はアーベル氏を正式に招きたいんですが、クレーレさん」
喜びを抑えきれない様子のクレーレ。
手紙「(かぶって)…今、こちらは君の論文に沸きたっています…」
21.北欧の春
手紙「…腰の重いわが国の文部省もようやく君を招くことを決定しました。一週間以内
に正式の招請状が出される手はずになっています…」
22.アーベルの寝室
手紙「(かぶって)…この手紙が、君のために良い薬であってほしいものと念じてい
ます…」
ベットに横になったまま外を眺めているアーベル ― ひどく衰弱している。
付き添っているクレリー。
クレリー「もう春ね。…そういえば昔よく春になると二人で出かけて、いろんなこと
話したわね。将来のこととか…」
アーベル「(小さな声で)クレリー…」
クレリー「え?なに?」
アーベル「これを…出してきてくれないか」
と枕元から一通の手紙を出す。
クレリー「また数学の論文?お医者様にあれほどとめられてるのに、いつのまに書い
たの?」
アーベル「(小さく笑う)」
クレリー「ま、書いちゃったものはしょうがないわね。じゃ、ちょっと出してきます」
出ていくクレリー。
N「それは数学の論文ではなく、友人ケイルハウにあてた、クレリーを託す手紙であ
った。死の床にあって、アーベルが最後に考えたのは婚約者の将来のことだったの
である」
窓の外の花畑に目をやっているアーベル。
アーベルの声「(かぶって)ケイルハウ君…ぼくの最後のわがままを聞いてほしい…
彼女は美しくはないかも知れない。髪は赤いし、そばかすはある。けれども、彼
女は立派な女性です…
ケイルハウ君…ぼくの最後のわがままを聞いてほしい…」
アーベル。
N「アーベルの望み通り、後に二人は結婚する。
いつも回りの心配ばかりしていたアーベルは1829年4月5日」
花畑を見ているアーベル。
― もう少し、勉強したかったな… ―
と静かに目を閉じる。
N「その短い生涯を閉じる。26歳。
ベルリンからクレーレの朗報が届くのは、そのわずか二日後であった」
23.フロランドの春
N「翌1830年、パリ科学アカデミーはアーベルに対して、グランプリを贈った
― 」
*
*
24フランス
ガロア。
N「アーベルから最も強く影響を受けた若き天才ガロアは、このアカデミーの失態に
激怒した。が、そのガロアも、アカデミーに無視されたまま、わずか20歳の命を
閉じることになる。アーベルの死後、わずかに三年のことである ― 」
(終)
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