「栄光なき天才たち」
― ドイツを支えた男たち @空気で火薬を作った男 フリッツ・ハーバー ―
作.伊藤智義
1.社長室
声「空気でアンモニアを作る?」
― 1909年 ドイツ BASF社 ―
社長「バカな…そんな夢物語をしゃべりに来たのかね?ドクター・ハーバー」
ハーバー「窒素化合物であるアンモニア(NH3)は極めて重要な物質です。化学肥料
として食料事情を支えるばかりでなく、戦時には火薬の原料にもなる」
懸命に力説する化学者。
― F・ハーバー(40) ―
社長「窒素の重要性は君に言われるまでもない。まさに国を支える物質だ。しかしそれ
はちり硝石として十分すぎるほど輸入されているじゃないか」
ハーバー「平和な時はそれでいいかもしれない。しかし、いざ戦争になったらどうしま
す?海上が封鎖されたら?輸入がストップしたら?ドイツはどうなりますか?」
社長。
ハーバー「残念ながら、現在の世界情勢はそれほど安定していない。やるんです。ドイ
ツのために!」
社長「(見る)ドイツのために?」
ハーバー「そうです。ドイツのために」
社長「…」
今まで社長の横で黙って聞いていた研究員。
― カール・ボッシュ(34) ―
ボッシュ「ハーバー博士。仕組みはどうなってるんですか?その、空中窒素固定法の…」
ハーバー「(見る。パッと顔が輝き)仕組みは簡単ですよ。空気は80%が窒素だ。だ
から空気と水素ガスを一緒にして圧縮する ― ただそれだけです」
ボッシュ「問題は圧縮する時の温度と圧力ですね?」
ハーバー「そうなんです」
ボッシュ「で、博士の理論では?」
ハーバー「(見る。口ごもり)500度で200気圧…」
ボッシュ「(ビックリ)200気圧…」
社長 ― 笑い出してしまう。
見るハーバー。
社長「200気圧だって?大ぼらもここまでくると全く愉快だ。ハハハハ…」
ハーバー「(ムッとなり)私は真剣です」
社長もムッとなる。
社長「ならばハッキリ言おう。うちのシステムの中で最高圧力は…(ボッシュを見る)」
ボッシュ「5気圧です」
社長「さあ、帰りたまえっ!夢の続きはベッドでしたまえっ!」
ハーバー「待ってください社長!実験室では成功してるんです。実験室の段階では……
あとは工業化できるかどうかの問題で…」
社長「それほど言うなら、その実験室とやらを見せてもらおうじゃないか」
ハーバー「え…ええ!ぜひ見て下さい!」
2.実験室
室内狭しと装置が組み立てられている。ハーバー、社長とボッシュに説明しながら装
置を作動させる。
ハーバー「このバルブを開いて、スイッチを入れると…」
ガタガタと、ものすごい音をたてて装置が作動する。
ハーバー「あとはここからアンモニアが出てくるのを待つだけ」
その蛇口をのぞきこむボッシュと社長。
ボッシュ「お…何か出てきましたよ、社長」
社長、見る。
液体がポタポタとビーカーに落ちる。
顔を近づける社長 ― 「ウワッ」と思わず鼻をおさえる。
社長「こ、このにおいは…」
ボッシュ「(ビーカーをとり上げ)間違いない。アンモニアだ。(振り返り)ハーバー
博士!」
ハーバー「(ニッと笑い)でしょ?」
と、その時、ボルトが一本はじけ飛んだかと思うと、
プシュー!!
と音がして、アッという間に装置、音をたてて崩れ落ちる。もうもうとしている煙の
中、呆然となる3人。
ハーバー「(ボソッと)だから、あとは工業化の問題だけなんだ…」
顔を見合わせ、フフッと笑う社長とボッシュ。
3.ハーバーの横顔
そこにかぶって、
N「かつて、故国ドイツを愛し、空気で火薬を作り、瀕死のドイツを一人で支え続けた
男がいた ― 」
― フリッツ・ハーバー ユダヤ系ドイツ人(1868−1934) ―
4.ヨーロッパの地図
同盟国と連合軍が色分けされている。そこに、戦火が起こる。
N「1914年7月、第一次世界大戦勃発」
5.戦線
塹壕(ざんごう)を掘り、対峙している両軍。
N「大方の予想を裏切り、戦いは長期戦へと進行していった」
6.イギリス軍本部
長官「(イラだっている)なぜだ?なぜドイツは長期戦に耐えていられるんだ?制海権
は我が大英帝国が握ってるんだぞ。海上封鎖は完全だ。輸入が止まった以上、ドイツ
の火薬は、計算ではすでに底をついているはずじゃないか?」
参謀1「実は…ドイツは空気で火薬を作っているという噂が…」
長官「空気で火薬を? ― バカなっ!」
参謀1「ドイツにはハーバーという化学者がいます。ご存知ですか?」
長官「(見る)そのハーバーがどうかしたのか」
参謀1「戦争が始まる数年前に空中窒素固定法、いわゆるハーバー法というものを提案
しています。詳細は明らかになっていませんが、簡単に言うと、空気中の窒素をアン
モニアに変えるもので…」
参謀2「しかし、ハーバー法の工業化は不可能だと推察されたはずじゃないかっ」
参謀1「推察は推察だ。現実はわからない」
長官「もし…そのハーバー法が実現していたら?」
参謀1「ドイツの火薬は無尽蔵ということに…」
長官「(見る)…」
7.大工場建設現場
大勢の人たちが働いている。
「空気で肥料を!」
「空気で火薬を!!」
指揮をとっているボッシュ。
ボッシュ「ドイツの興亡はこの工場建設にかかってるんだ!がんばってくれっ!」
N「ハーバー法の工業化はすでに実現していた。その指揮はボッシュがとった。その頃、
ハーバーは…」
8.研究所
男1「毒ガス!?」
男2「我々若手化学者を集めたのは、毒ガス開発のためなんですか?ハーバー博士!」
ハーバー「その通りだ」
男3「毒ガスはハーグ条約で禁じられている!博士はご存知ないんですか!?」
研究員の一人。
― オットー・ハーン(35) ―
ハーバー「しかし、ガス弾薬筒はフランス軍も所持しているんだ。これは事実だ」
ハーン「しかしっ!」
ハーバー「やるんだ、ハーン君。ドイツのために」
ハーン「しかし…」
ハーバー「やるんだ、ハーン君。やるんだ、諸君!ドイツのために!」
9.イギリス軍本部
長官「なにっ!?イープルが、全滅した!?」
参謀1「毒ガスです。ドイツは毒ガスを使った模様です」
長官「毒ガスだとォ!?」
参謀2「協定違反じゃないか」
参謀3、入ってくる。
参謀3「ハーバーですよ。例のハーバーが今度は毒ガスで…」
長官「(唇をかむ)…たった1人の科学者が、1個大隊にも匹敵するというのか…」
参謀3「しかしご安心下さい。なぜかドイツ軍は前線を突破したというのに、その後進
撃してこなかったのです。我が軍はすぐに援軍を送り、戦線を戻しました」
長官「(見る)ん?」
参謀3「本当です。いくらすぐれた持ち駒があろうとも、指揮する軍人がマヌケでは…」
長官「…」
参謀4「(飛び込んでくる)大変ですっ!ドイツが潜水艦で、無差別攻撃を開始しまし
たっ!」
顔を見合わせる一同。
長官「ついにきたか…よし!」
と出ていく長官。それに続く参謀たち。
10.海
海上を制圧する大英帝国艦隊。
*
海中でそれを狙うUボート。
N「海軍力で優るイギリスに海上を制圧されたドイツは、潜水艦でそれに対抗、交戦国、
中立国を問わぬ無差別攻撃を開始した。
これに怒ったアメリカはついに1917年、参戦、ドイツは一気に苦境に追いこま
れていく」
11.研究所
N「その中でハーバーは必死の研究を続けていた」
研究中、フラフラとなるハーン。
ハーバー「どうしたハーン君」
ハーン「大丈夫です。ちょっとめまいがしただけで…」
と言って、フラッと崩れる。
ハーバー「ハーン君!」
抱き起こす。
回りを見ると、みんな疲れきっている様子。
ハーバー「(叫ぶ)窓を開けろっ!各自ガスの栓を確認するんだっ」
*
N「後にノーベル賞受賞者数人を輩出することになるドイツきっての俊英科学者集団が、
時には自らを実験台にすることも辞さない態度で、毒ガス開発にまい進していた。彼
らは、強力な兵器こそ、戦争を短期に終結させる切り札になると、信じたという ― 」
・毒ガスの種類(開発順)
塩素ガス
緑十字(グリーン・クロス)(フォスゲン)
青十字(ブルー・クロス)(青酸、塩化錫、塩化砒素、クロロフォルムの混合ガス)
黄十字(イエロー・クロス)(イペリット)
・
・
・
12.ハーバー家
出かけていこうとするハーバーに泣いてすがりつく妻。
妻「もうやめて下さいっ!毒ガスなんて、あまりにもひどすぎます」
ハーバー。
妻「あなたは科学者でしょう?戦争は軍人にまかせておけばいいじゃありませんかっ」
ハーバー「何を言うんだ。おまえはドイツがどうなってもいいというのかっ!」
妻「でも、あなたのやってることは…」
ハーバー「オレは何だってやるっ。たとえヨーロッパ中の非難を一身に浴びようとも、
ドイツのためになることだったらオレは何だってやるっ」
妻「あなた…」
ハーバー「どいてくれっ」
妻「あなた!」
ハーバー、出て行き、ドア、バタンと閉まる。
妻「…」
妻、ウッと顔をおおい、泣き崩れる。
13.研究所
一心に研究を進めているハーバー。
― オレは何だってやる。ドイツのためなら、ドイツが勝つためなら、何だって… ―
研究員A「(飛び込んできて)ハーバー先生!大変ですっ!」
振り向くハーバー。
― ビックリする。
14.ハーバー家・寝室
息をきらせて飛び込んでくるハーバー。
ベッドの上、妻がぐったり横たわっている。
枕元には薬のビンと散在している錠剤。
ハーバー。
すでに来ている医者が、ハーバーに向かって力なく首を振る。
ハーバー「…」
― ガク然。
ガックリひざから崩れる。
声もたてずにむせび泣くハーバー。
その光景ロングになり ―
N「1919年11月、敗戦 ― 」
15.電話
けたたましく鳴る。
16.ハーバー家
その電話から逃げるように奥に引っ込むハーバー。― げっそりやつれている。
ハーバー「私ならいないぞ。いないと言ってくれ」
見るボッシュと研究員A。
ボッシュ「?」
けげんそうに受話器を取ろうとするが、研究員Aその手をおさえる。
ボッシュ「(見る)」
研究員A、首を振る。
電話、切れる。
合点がいかないボッシュ。
ボッシュ「どうしたんだい、いったい…戦争が終わったんで久しぶりに訪ねてみれば…
いったい何をあんなにおびえているんだ、ハーバーさんは?」
沈痛な表情の研究員A.
研究員A「ハーバー先生の戦争は終わってないんですよ。先生は…殺される」
ボッシュ「(驚き)どういうことだ?…(ハッと気づき)戦争犯罪人か?」
研究員A「(うなずく)毒ガスの責任者ですからね」
ボッシュ「しかし、ハーバーさんは科学者だぞ。しかも戦争が始まったときは民間人だ
ったんだ。戦犯で捕まるわけが…」
研究員A「どうしてそう言い切れるんですか?」
ボッシュ「(ムキになって)向こうだって、使ったじゃないかっ」
研究員A「ドイツは負けたんですよっ!」
ボッシュ「…」
研究員A「(おさえて)ある情報によれば、戦犯名簿にハーバー先生の名前は確かに載
っているそうです」
ボッシュ。
研究員A「先生だって覚悟はできているんです。毒ガスの責任は全て一人でかぶってい
ますし、全く否定していません。そりゃそうでしょう。それぐらいの覚悟が無ければ、
あれだけのことはできませんよ。ただ…」
ボッシュ「(見る)」
研究員A「誰だって、その日が来れば、少しぐらい動揺しますよ」
ボッシュ「その日って?」
研究員A「今日は朝から電話が鳴り放しなんですよ」
ボッシュ「 ― 」
沈痛な表情になる。
と、何だか外が騒がしいのに気づく。
二人、顔を見合わせ立ち上がる。
カーテンのすき間から外を見ると、
ビッシリ埋めつくされた車、報道陣の群れ。
血の気が引く二人。
ドンドン、と激しいノック。
声「ハーバーさん、いるんでしょ、開けてください」
「開けて下さいっ、ハーバーさん!」
ボッシュ「どうしよう。どうしたらいいんだ?」
研究員A「どうしたらって…」
ドンドンドン、
「ハーバーさん!」
17.同・表
業を煮やした記者たちが、
「こじ開けてみよう」
と、数人で引っぱる。
バキッとこわれて、ドア、開く。
なだれこむ記者たち。
18.同・中
必死で記者の侵入をくい止めるボッシュと研究員A。
研究員A「お待ち下さいっ!今、先生はいませんっ!お待ち下さいっ!」
記者1「一言だけでいいんですよ。一言だけ」
ボッシュ「いないって言ってるじゃないかっ」
記者2「あ、ハーバー博士!」
振り向くボッシュ。研究員A。
ハーバー厳しい表情で出てくる。
ハーバー「(二人に向かってムリに笑顔を作る)覚悟はできてるさ」
その二人をおしのけて記者たち、ハーバーを取り囲む。
記者1「おめでとうございます、博士。今のご感想を一言」
ハーバー「ん?(と見る)」
記者2「この喜びを一番誰に伝えたいですか?」
ハーバー「(けげんに)何を…言ってるのかね、君たちは…」
記者1「何をって…あれ?先生はまだご存知じゃないんですか?連絡、入ってませんか?」
ハーバー「(低く)何のだね?」
記者1「ノーベル賞ですよ」
記者2「1918年度ノーベル化学賞をハーバー教授が受賞されたんですよ」
ハーバー「(ビックリ)えっ?」
ビックリするボッシュと研究員A。
ハーバー「まさか…」
記者1「いや、当然の受賞ですよ。この荒廃したヨーロッパに今、何が一番必要か?食
糧ですよ。そのためには肥料がいる。空中窒素固定法ですよ。ハーバー法ですよ」
記者2「今、世界が一番必要としているもの、それがハーバー法じゃないですか」
ハーバー「しかし、私は毒ガスの…」
記者1「あれは戦争だったんです。先生の責任じゃありません」
ハーバー「…」
何か言おうとするが、言葉が出てこない。
記者1「どうしたんですか?先生」
ハーバー「いや…私はてっきり、君たちは私を捕まえに来たのだとばかり思っていたか
ら…」
記者1「私たちが先生を捕まえる?どうしてです?」
ハーバー「いや、戦争犯罪人として…」
「先生が戦犯として?」
ドッと笑いが起こる記者たち。
記者1「もし先生が戦犯に指名されたとしたら、今度は我々が守りますよ。ドイツ最後
の誇りをかけて」
記者2「ま、もう戦いはこりごりですがね」
またドッと笑いが起こる。
つられて力なく笑うハーバー。
― しかし、その瞳からは、涙がハラハラあふれてきて止まらない。
涙がこみ上げてくるボッシュと研究員A。
どうしようもなくなって顔をおおうハーバー。
記者たちも、いつしか涙ぐんでいる。
記者1「先生、今度は荒れはてたドイツ復興のために、お願いしますよ」
顔を上げずにうなずくハーバー。
19.ノーベル賞授賞式
盛大な拍手に包まれている壇上のハーバー。
最高の晴れ姿。
N「ハーバーはドイツ復興のために全精力を注ぎ、1930年頃には再び世界的な名声
を確立する。ドイツはハーバーを誇りに思い、ハーバーの将来は保証されたようにみ
えた。
が、そこには、意外な結末が待っていたのである」
20.軍靴が鳴り響いてきて ―
21.イメージ
ヒトラー。
聴衆
「ハイル・ヒトラー」
の大合唱。
N「1933年ナチス・ヒトラー。政権奪取。
と同時に各地でユダヤ人迫害政策を実施」
21.イメージ
アルベルト・アインシュタイン(1879−1955 相対性理論の提唱者)
N「なかでもアインシュタインの国外追放は世界に衝撃を与えた」
22.カイザー・ウィルヘルム物理化学研究所
N「しかし、それにも増してドイツ科学界に衝撃を与えたのは ― 」
23.同・所長室
そこにドヤドヤとナチス親衛隊が入ってくる。
見るハーバー。
隊員1「ハーバー博士ですね?」
ハーバー「何だね、君たちは?」
書状をバッと示す隊員1。
隊員1「国外退去命令書です」
ハーバー「(驚愕)な、なんだとっ」
24.総統室
ヒトラーに抗議に来ている老科学者。
― マックス・プランク(1858−1947 量子論の父)
カイザー・ウィルヘルム協会総裁 ―
プランク「ドイツを嫌い、半ば憎んでいたアインシュタイン博士の時とは、わけが違い
ますぞ。ハーバー博士ほどドイツを愛している人はいない。第一次大戦での活躍をお
忘れではないでしょう?」
見るヒトラー。鼻で笑い、部下に向かって、
ヒトラー「ユダヤ人はユダヤ人だ。なあ」
プランク ― 見る。
(ヒトラー)
― その握りしめたこぶしが怒りに震えてくる。
25.汽車
揺られているハーバー。 ― 憔悴しきっている。
N「ドイツを愛し。ドイツのために生きてきたハーバーは、ついに、ドイツ人の手によ
ってドイツを追われた」
ハーバー ― その疲れきった表情に、
N「翌1934年1月、ハーバーは異国スイスの地で、失意のうちにこの世を去った
― 」
26.汽笛を引きながら小さくなっていく汽車
* *
27.字幕
「世界は再び激動の時代へと、急速に歩を速めていた」
28.研究室
― カイザー・ウィルヘルム化学研究所 ―
研究しているオットー・ハーン。
ハーン「ん?」と見る。
N「ナチス・ヒトラーにズタズタにされていくドイツ科学界の中で1938年12月、
オットー・ハーンは、ある意味で、人類史上、最大の発見をしようとしていた」
ハーン、実験結果を手にしてビックリ。
N「“原子核分裂反応の発見”
それは、第二次世界大戦が勃発するわずかに9ヶ月前のことであった。
そして大戦勃発とともに、ドイツとアメリカ双方で、原爆開発計画がスタートする
のである ― 」
(終)
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