「栄光なき天才たち」
― 神父さんの生物学 グレゴール・ヨハン・メンデル ―
作.伊藤智義
1.学会
壇上で自説の説明をしているチャールズ・ダーウィン。
ザワついている場内。
質問者「(立ち上がり)つまり、生物のぞれぞれの種は、神によって個々に創造され
たものではなく、きわめて簡単な原始生物から進化してきたものである ―
そう結
論されるわけですか?」
ダーウィン「その通りです」
騒然となってくる場内。
N「1859年、チャールズ・ダーウィン(英)、『種の起源』を発表。生物学界のみ
ならず、社会的にも、大センセーションを巻き起こしていた。
と同時にそれは、遺伝学にも火をつけた。
“どのようにして形質は遺伝するのか?”
これこそが種の変異のしくみを解くカギであったからである。
ダーウィンをはじめ、多くの著名な生物学者たちがこの問題に挑戦した。が、しか
しすでにその頃、その問題に解答を与えていた人物がいた。それは意外にも、全く無
名の、修道士だったのである」
2.修道院
― 1857年 オーストリア ブリューン(現チェコスロバキア ブルノ)―
3.そこの畑
庭を利用した小さな畑。
正確に区分けされ、エンドウマメが栽培されている。
そのエンドウマメの取り入れをしている修道士。
― G・J・メンデル(35) ―
その横の道をおばさんA、Bが来る。メンデルに気づいて、
おばさんA「メンデル神父」
おばさんB「メンデル先生!」
メンデル「(見る)やあ、こんにちは」
おばさんA「よく実ったじゃないですか」
メンデル「ええ、おかげさまで」
おばさんA「あとでうちに持ってきなさいよ。おいしく煮てあげるから」
メンデル「いやいや、これは食べるために作ったんじゃないんですよ。実験用なんです」
おばさんA「実験?」
おばさんB「食べないの?」
二人「もったいない」
メンデル「ハハハ…」
そこに生徒たちがやって来る。
「先生―!手伝いますよっ」
メンデル「やあ、君たち。よろしく頼むよ」
N「メンデルは修道院につとめる神父であり、近くの実業中学校で物理を教える教師で
あった。
その仕事のかたわら、修道院の狭い空き地を利用して、エンドウの交配実験を行っ
ていたのである」
4.修道院・部屋A
豆の数を数えているメンデルと生徒たち。
メンデル「注意して数えてくれよ」
生徒A「(ふと気づき)あれ?」
メンデル「(見る)どうした?」
生徒A「変ですよ、先生。緑のマメが混じってる」
生徒B「何が変なんだい?緑のマメなんかちっとも珍しくないじゃないか」
生徒A「だってこれ、全部黄色のマメから作ったんだぜ、確か。そうですよね、先生」
メンデル「うん、その通りだ」
生徒A「(Bに)黄色のマメから緑のマメができるなんて、変じゃないか」
生徒B「…(メンデルに)どういうことですか?先生」
メンデル「うん。実は去年まいた黄色のマメというのは、黄色のマメと緑のマメをかけ
合せて作ったものなんだ」
生徒たち「?」
メンデル「順を追って説明しよう。まず黄色のマメと緑のマメをかけ合せて新しいマメ
を作る。すると、そのマメには黄色と緑の両方の性質が入ってくるわけだね?」
[図]
(黄)
| →(黄・緑)
(緑)
生徒C「そうすると黄緑色のマメができるんじゃないですか?」
メンデル「いやいや。これが不思議なことに黄色のマメにしかならない」
生徒B「つまり、黄色の性質のほうが緑より強いわけですか?」
メンデル「そういうことになるね」
生徒A「それが去年のマメなわけですね?」
メンデル「そうなんだ。だから去年のマメは、外見は黄色だけど、中には黄色と緑の2
つの性質を持っているから、その子供は、このように4通りのものができる」
と図をかくメンデル。
[図]
|→(黄・黄)Aから黄色・Bから黄色の性質を受け継いだマメ
| →黄色のマメになる。
A(黄・緑) |
| |→(黄・緑)Aから黄色・Bから緑色の性質を受け継いだマメ
|―――→| →緑色のマメになる。
| |
B(黄・緑) |→(緑・黄)Aから緑色・Bから黄色の性質を受け継いだマメ
| →緑色のマメになる。
|
|→(緑・緑)Aから緑色・Bから緑色の性質を受け継いだマメ
→緑色のマメになる。
メンデル「ホラ、すると4つのうち1つは黄色の性質を持たない緑のマメができるわけ
だ」
生徒A「(緑のマメを手にとり)フーン…それがこれなのか…」
メンデル「これを遺伝の法則というんだ」
生徒A「遺伝の法則?」
生徒B「そんなの学校じゃ習ってませんけど…」
メンデル「そりゃそうさ。これは私が発見したんだから」
生徒たち「え?先生が!?」
メンデル「もしこの説が正しいならば、ここにあるマメは、黄色と緑とが3対1の割合
で含まれているはずなんだ」
「よし、数えてみよう」
再び数え始める生徒たち。
5.修道院・勉強室
修道士たちが数人いて、それぞれの勉強をしている。
そこに院長、来る。
院長「メンデル君は来てないかね?」
修道士A「メンデルさんならさっき、子供たちと一緒に豆をとっていましたよ」
院長「また豆いじりか…。来週は上級学校の教員採用試験があるはずだろ?」
修道士A「ええ」
院長「メンデル君、3回も落ちているというのに…」
ブツブツ言いながら出ていく院長。
6.同・部室A
メンデル「結果が出たようだね。黄色のマメは?」
生徒A「6022個です」
メンデル「(緊張してくる)緑のマメは?」
生徒B「2001個です」
メンデル。
生徒C「6000対2000か…あっホントだ、3対1になってる」
「へえー」
と生徒たち。
メンデル ― 。
そこに院長、来る。
院長「やっぱりここか…」
生徒たち「あ、院長先生。こんにちは」
院長「やあ、こんにちは」
メンデル「何かご用ですか?」
院長「何かじゃないよメンデル君。君、いつまでそんなことをしてるつもりなんだ?来
週は試験だろ?」
メンデル「すみませんが院長、しばらく試験は受けません」
院長「受けない?なぜ?」
メンデル「どうしてもやりたいことがあるんです」
院長「どうしても?(見る)マメかね?」
メンデル「はい」
院長「それは、どうしても今やらなければならないのかね?」
メンデル「はい。どうしても今やらなければならないんです」
*
N「メンデルは1855年から63年まで、8年間で実に12980もの試料について
エンドウの交配実験を行った」
7.メンデルの部屋
夜。
論文を書いているメンデル。
N「その実験結果をもとにメンデルは、初めて遺伝子という概念を導入し、その法則性
を見事な数式として表すことに成功した。これが現在“メンデルの法則”と呼ばれて
いる遺伝学の基本法則である」
メンデル「よし、できたぞ」
自信にあふれたその横顔。
8.大学・研究室
メンデルの論文に目を通している教授。
教授「(顔を上げ)つまりあなたは、生物の遺伝形質というのは、それを伝える因子
(現在の遺伝子)というものが細胞の中にあって、それによって子に伝わると、こう
言われるわけですかな?」
メンデル「そうです」
教授「フム…」
間。
教授「あなた、生物学はどこで勉強されたんですか?神父さん」
メンデル「29歳の時に修道院から派遣されてウィーン大学に留学しました。その時に
少し…」
教授「それだけ?」
メンデル「ええ。あとは独学で」
教授「ああ、なるほど、それで…」
メンデル「え?」
教授「いや、生物学というのは、ちょっとかじったくらいでわかるほど、単純なもので
はないんですよ」
メンデル「どういう意味ですか?」
教授「あなたの論文には数式がたくさんでていますが、生物というのはたとえ下等な植
物とはいえ、数式で割り切れるほど単純なものではないということですよ。生命とい
うものはもっと神秘的なもので、それゆえ生物学という学問がある。生物学は数学の
おもちゃでは決してあり得ない」
メンデル「しかし実験結果はそうでてるんですよ。きれいに数式にのるような…」
教授「もしそういう結果がでたとしたなら、それは偶然でしょう」
メンデル「私は8年間で1万以上の試料について記録をとったんですよ。それが全部偶
然だなんて…」
教授、仕方ないというように息をつき、
教授「それほどいうならあなたの種子を私の所に送ってください。追試してあげますか
ら。ただし私には時間の余裕もあまりないし、自由になる畑も少ないですがね」
メンデル「…」
9.大学・門
傷心して出てくるメンデル。
10.同・研究室
去っていくメンデルの姿が窓越しに見える。
助手「今度はエンドウマメの実験をなさるんですか?」
教授「バカバカしい。いちいち神父さんの趣味に付き合ってるほど私は暇じゃないよ」
と、立ち上がる。
教授「それよりダーウィンが遺伝について新しい論文を発表したっていうじゃないか。
すぐ出かけるぞ」
11.道
傷心して帰っていくメンデル。
N「メンデルの論文は地元の学会誌に発表され、多くの著名な植物学者たちに送られた。
が、ついに何の関心も引かなかった。
メンデルの法則の優れていた点は、はじめて遺伝子という概念を導入したことと、
その伝わり方を数式として極めて論理的に表現したことにあったが、それを理解する
ほど、まだ生物学は熟していなかったのである」
12.修道院・畑
ぼんやりながめているメンデル。
院長「(来る)メンデル君。いつまでもこんな所にいるとカゼをひくよ」
メンデル「あ、今戻ります」
院長「(メンデルの横に来る)何を考えていたんだね、ぼんやりして…」
メンデル「ええ…ここへ初めてきた頃のことを思い出してまして…」
院長「(見る)初めて来た頃のこと?」
メンデル「私は貧しい農家の生まれでして…学問をするには、教会に入るよりほか方法
がなかったんです。不純な動機ですけど…」
院長「そんなことはないさ。…でも、そういえば君、昔から勉強家だったなぁ」
メンデル「でも私はただ好きだっただけで本当は向いてなかったのかもしれない」
院長。
メンデル「試験には3回も落ちるし、今度のことだって…」
院長「マメのことかね?そりゃ仕方ないよ」
メンデル。
院長「いや、私には君が何をやろうとしていたのかは全然わからん。でも、やはり無理
だよ。相手はプロの研究家なんだから。それに引きかえ君の本職は神父。学問に関し
ていえばしょせんアマチュア。やっぱり勝負にならんよ」
メンデル「(懸命に)いや、あれはですね…」
院長「いや、私は別に君を悪く言うつもりはないんだ。ただ、そういうことで落胆する
ことは全然ないと言いたいんだよ。むしろアマチュアとしてもずっと学問を志向して
いる、その姿が賞賛に価すると…」
メンデル「いや、違うんです。違う!」
ビックリして見る院長。
メンデル「あの論文は、あの研究は私としては絶対の自信があって、あれは絶対に…」
と、ムキになって言いかけるが ― やめる。
院長「…」
メンデル「すみません、大きな声を出して…」
院長「いや…」
メンデル「…正直言ってショックだったんです。自信がありましたから、かえってその
分…」
院長「フム…」
メンデル「(つぶやくように)どうしてなのかなぁ…」
見る院長。
院長「どうかね、これを機会にきっぱりマメいじりをやめてしまっては」
メンデル「え?」
院長「君は神父としては申し分ない。今度は修道院のために尽してみてはくれないかね?」
メンデル「どういうことですか?」
院長「私は、次の院長に君を推薦しようと思っている」
メンデル「(ビックリ)えっ!?」
その場面、ロングになって ―
N「1866年、メンデルはブリューンの修道院の院長になった」
13.院長室
雑務に追われているメンデル。
そこに修道士A、とび込んでくる。
修道士A「大変です、院長!政府が宗教施設に課税すると通告してきましたっ!」
メンデル「何だって!?」
N「院長となったメンデルは、当時の宗教施設に対する課税政策で政府と激しく対立、
全精力をそれに注ぎ込んだ。もはやメンデルには研究する時間的余裕は全くなかった」
14.学会
激しく論争する学者たち。
N「一方、生物学会は、依然メンデルの法則に気づく者なく、論争は空しくエスカレー
トしていった。そしてその論争にメンデル自身が加わることは、決してなかったので
ある」
15.修道院・院長室
修道士たちが集まっている。
修道士A「これが政府の示してきた妥協案です」
手にとるメンデル。
メンデル「(目を通し、首を振る)どんな妥協も認めることはできない」
修道士A「しかしこれは最後通告なんですよ。もしこれを受け入れなければ、この修道
院を差し押さえるという強硬派もいるんです」
メンデル「君は、我々と政府と、どちらの言い分が正しいと思う?」
修道士A「それはもちろん…」
メンデル「だったら迷うことはないだろう。正しいと思ったら最後まで。そうだろう?」
16.修道院・表
夕焼けの中、疲れきった修道士たちが荷物を運び出している。
*
修道士A「(メンデルに)とうとう本当に差し押さえられてしまいましたね」
メンデル「うん…」
*
修道士B「オーイ、これで全部かあ?」
二階の窓から、
修道士C「はい、それで全部ですっ!」
修道士B「(うなずき、みんなに)よし、行こう」
リヤカーを引き、出発する修道士たち。
*
修道士A「本当にこれで良かったんでしょうか?」
メンデル「(見る)少なくとも私は、後悔はしていない」
修道士A。
メンデル「正しいと信じたことは、正しいと信じている限り、貫かなければならないと
私は思う。そしてもし、本当に私たちが正しいならば、いつか必ず私たちの言い分が
認められる日が来るだろう」
修道士A「はい」
メンデル、かつてのエンドウマメ畑に目をやり、
メンデル「(つぶやくように)そう、正しければ必ず、認められる日がくるはずだ…」
メンデル ― 。
メンデル「さあ、行こう」
修道士Aを促し、去っていくメンデル。その小さくなっていく後姿にかぶって、
N「メンデルの死後数年たって、この税法は撤回される」
夕日に照らされているメンデルの横顔。
N「そして1900年には3人の科学者によってメンデルの法則が再発見され、それを
機に、遺伝子工学へと急速な発展を見せる20世紀の遺伝学は、一気に開花するので
ある ― 」
(終)
[戻る]