「栄光なき天才たち」

― メキシコの英雄 サルバドル・サンチェス ―

 作.伊藤智義


1.ボクシング会場
  満員の観客で埋まっている。
 ― 1980年2月2日 米国アリゾナ州フェニックス ― 

2.客席
 「おい、掛け率は?」
 「6−4でロペス。ロペスは四年間も王座を保持している強いチャンピオンだ。ポッ
  と出のメキシカンに勝ち目はないさ」 

3.リング上
  レフリーから試合前の注意を受けている二人のボクサー。ロペスとサンチェス。
 ロペス「おい若造。せいぜいそのかわいい顔が変わっちまわねえことを祈るんだな」
 サンチェス「…」
  二人、コーナーに別れて、
  ゴングが鳴る。
 ― WBC世界フェザー級タイトルマッチ
    チャンピオン ダニー・ロペス(米)
          対
    挑戦者 サルバドル・サンチェス(メキシコ) ― 

4.街角
  電気屋のテレビの前に群がっている人々。
 ― メキシコシティー ―
 「おー、サンチェスだっ」
 「本物だ、本物」
 「ほう」
  テレビに映し出されているサンチェスの姿。
  若者たちが口々に、
 「しかしあの”弱虫ニーナ(小娘)”と呼ばれてたサンチェスがねえ…変われば変わ
  るもんだな」
 「そうそう、そういえばアイツ、ガキの頃、メディコ(医者)になるんだとか言って
  なかったっけ?」
 「ああ言ってた言ってた」
  そのそばで、会話に加わらず、じっと画面を見つめている若者A。
 子供の声「(かぶってくる)やめなよ、やめなったら!」

5.回想
  ケンカをしている2つの少年グループ。
  それを脇で必死に止めようとしている少年サンチェス。
 サンチェス「もうやめてよ。鼻血出してるじゃないか」
  殴っている少年A(若者A)。
 少年B「何言ってるんだ、もとはといえばおまえがニーナ、ニーナとバカにされてる
  から…」
 サンチェス「いいんだ。ぼくのことだったらかまわないから」
  見る少年A。
  そのスキに下になっていた少年、ドンと少年Aをつきとばし、逃げ出す。
 「おぼえてろっ!」
  それを合図に仲間の少年たちがあとを追う。
  捨てゼリフを残して逃げていく少年たち。
  勝った方の少年たちの誇らしげな顔つき。
 「悔しかったら何度でもかかって来いっ!いつでも相手してやるぞっ! ― へっ!」
  だが少年Aだけは厳しい顔つきのままサンチェスに詰め寄る。
 少年A「おまえ、あれだけバカにされて悔しくないのか?オレたちはおまえのために
  …」
 サンチェス「悔しいよ。悔しいけど、ケンカはよくないよ。殴られれば、ケガするじ
  ゃないか」
 少年A「ケガ? ― へっ(吐き捨てる)だからテメエは”ニーナ"なんだよっ!」
  見るとサンチェス、大事そうに本を抱えている。
 少年A「(ムカッときて)いつもいつも本なんか大事そうにかかえてるんじゃねえよ
  っ!」
  と、その本をひったくる。
 サンチェス「あ、何すんだよ。返してよ」
 少年A「おまえ、メディコ(医者)になりたいんだってな?」
  見るサンチェス。
 少年A「それで毎日お勉強かい」
 サンチェス「…」
 少年A「だがな、メディコになるには頭がいいだけじゃダメなんだぜ。金がいるんだ。
  普通の家じゃとても払いきれないくらいの、ものすごい金がなっ!だからこんなこ
  と、いくらやってもムダなんだよっ!」
  ビリッとその本を破り捨てる少年A。
 「あっ」と見るサンチェス。
 サンチェス「…」
  そこに歓声、よみがえってきて、 

6.リング上
 アナの声「サンチェスの右ストレートッ!!」
  サンチェスのパンチ、ロペスの顔面に炸裂、血しぶきが飛ぶ。
 アナの声「ああっと、チャンピオン、右目を切ったーっ!!」
  サンチェス、ラッシュ。
  応戦するロペス。
 アナの声「激しい打ち合いだ!いい勝負になってきた第4ラウンドーッ!!」
  大歓声の中、打ち合っているサンチェスとロペス。
  ここでゴングが鳴る。
   *
  ロペス陣営。
 ロペス「血が入って目がよく見えない。何とかしてくれ」
  止血剤を塗りたくるセコンド。
   *
  サンチェス陣営。
 セコンド「いい感じだ。いけるぞっ」
  うなずくサンチェス。
  そこに、
 サンチェスの声「(かぶってくる)オレはメディコになるために高校に進学した」

7.回想(学校)
  授業を受けているサンチェス。
 声「しかしすぐに、メディコになるためには勉強だけできてもダメだという現実が見
  えてきた。アイツが言った通りだった。金がいる。メディコになるためには莫大な
  金がいる。
   そんな時だった。ボクシングに出会ったのは ― 」 

8.場末のボクシング場
 声「デビュー戦、3R(ラウンド) KO勝ち」
  KOした相手を見ているサンチェス。
 声「その時思った。オレは、ボクシングの才能があるんじゃないかと ― 」
  そのサンチェスの顔に歓声、よみがえってきて ― 、 

9.リング上
  小康状態を保っているサンチェスとロペス。
  しかしサンチェスの無傷の顔に対して、ロペスの顔面は両目がはれ上がり、そこか
  ら血が流れている。

10.放送席
 アナ「ロペスが目の上を切ってからは完全にサンチェスのペースになってきましたね
  え」
 解説者「ええ。全く予想外の展開です」

11.街角(メキシコシティー)
  人々がテレビに釘づけになっている。
 「やるじゃねかサンチェスのやつ。戦前の予想じゃ勝ち目はねえと言われてたんだ
  ろ?」
 「ああ。ロペスといえば、ここ4年間、計8度の防衛に成功して王座を守り続けてい
  る強いチャンピオンだからな」
 「それじゃサンチェスの力は?」
 「本物だろう」
 「今から考えると、サンチェスが入学してすぐ高校をやめたのは、大正解だったわけ
  だな」
  ピクッと見る若者A。
 若者A「…」
  そこに、
 声「(かぶって)やめる!?やめるって、学校をか?」

12.回想(サンチェスと若者A)
 サンチェス「ああ」
 若者A「ああ、て、おまえ、せっかく入った学校じゃないか。高校出てればいい職に
  もありつけるし…」
 サンチェス「オレ、ボクシングに打ち込むんだ」
  見る若者A ― あきれて、
 若者A「フン、メディコの次はボクシングか…つくづくおめでたいヤツだな、テメエ
  は」
  見るサンチェス。
 若者A「町のやつらがおまえのこと、何て言ってるか知ってるか? ― 夢ばかり見て
  いる大バカ野郎だってよっ!」
 サンチェス「(ムッとくる)大バカ野郎だって構わないよ。夢なんてもんは、追いか
  けて、追いかけて、そうして手に入れるもんだろ?」
 若者A「手に入れられるのは特別な人間だけだ。オレたちには縁がないっ」
 サンチェス「そんなの、やってみなくちゃわからないだろう」
 若者A「わかる!現におまえだってメディコになれないじゃないか」
 サンチェス「(見る)」
 若者A「ボクシングだって同じさ。おまえは絶対泣きを見るぞっ」
 サンチェス「それでもかまわない。夢っていうのは、追わないヤツには絶対つかめな
  いんだから」
 若者A「(見る)勝手にしろっ!」
  去っていく若者A。
  サンチェス。
 ― オレはやる。ボクシングで金を儲けて、そして… ―
  その決意を秘めたサンチェスの横顔に、大歓声、かぶってきて ―

13.リング上
  猛然とパンチをくり出しているサンチェス。
 アナの絶叫「サンチェス、ラッシュ!サンチェス、ラッシュ!右!左!右!チャンピ
  オン、危なーいっ!!」
  ボコボコに変形してしまっているロペスの顔面 ― それがサンチェスのパンチが当
  たるたびに激しくゆがむ。
   *
  興奮のるつぼと化している会場。

14.街角
  熱狂している人々。
 「いけーっ!!いけーっ!!」

15.リング上
  サンチェス。
  ロペス。
  サンチェス。
 ― 今までは確かに夢を追いかける大バカ野郎だったかもしれない。だがこれからは
  違う。このチャンス、絶対に逃さないっ! ―
  うなるサンチェスの右ストレート!
  ロペスの顔面を見事にとらえる。 ― グラッとくるロペス。
  そこにサンチェス、パンチの雨。
 アナ「サンチェス強いっ!!サンチェス強いっ!!」
  立っているのが精一杯のロペス。
  レフリー、たまらず割って入る。
 アナ「レフリーストップ!サンチェス、初挑戦で世界を奪取!!」
  沸き起こる大歓声。

16.街角
  爆発する大興奮。
 「やったーっ!!」
  その大騒ぎの中で若者A、じっと画面のサンチェスの雄姿を見つめている。
 若者A「(つぶやく)追いかけた者だけが夢をつかむことができる、か…」
  フッと笑い、
 ― 負けたよサンチェス、おめでとう ―

17.リング上
  大歓声に包まれ、輝きにあふれているサンチェス ― 。
 N「ここに一つ、メキシコの星が誕生した」
   *
 N「サンチェスは"強い"チャンピオンだった」

18.タイトル防衛戦のワンショット
  防衛第1戦 対ルーベン・カスティーヨ
   15R 判定
    *
  第2戦 対ダニー・ロペス(リターン・マッチ)
   14R KO
    *
  第3戦 対パトリック・フォード
   15R 判定
    *
  第4戦 対ファン・ラポルテ
   15R 判定
    *
  第5戦 対ロベルト・カスタノン
   10R KO
    *
 N「そして“世紀の対決”といわれた防衛第6戦。35戦35勝35KO、KOキン
  グとうたわれた不動のジュニア・フェザー級チャンピオン、ウィルフレッド・ゴメ
  スが二階級制覇を狙って挑戦」
  炸裂するサンチェスのKOパンチ。
 ― 8R KO ―
 N「これを逆にKOで下し、サンチェスの名は世界に轟き渡った。
   以後も快調に防衛を続ける」
    *
  第7戦 対パット・コーデル
   15R 判定
    *
  第8戦 対ロッキー・ガルシア
   15R 判定
    *
  第9戦 対アズマー・ネルソン
   15R KO
 N「サンチェスは一気にメキシコの英雄の座にかけ上がった ― 」

19.ジム・表
  サンチェスが出てくる。
  と、あっという間にファンに取り囲まれて、もみくちゃにされる。
 「サインして下さい」
 「サインしてーっ」
   *
  その様子を離れたところから見ている若者A ― 小さい子供を連れている。
 若者A「よく見ておけよ。あれが世界一強い男、サルバドル・サンチェスだ」
 子供「パパの友だち?」
 若者A「ああ。昔のな」
 子供「(見る)今は?」
 若者A「(見る)今でもパパは友だちだと思ってる」
 子供「?」
  サンチェスを見つめる若者A。
 若者A「さ、帰るぞ」
 子供「え?会っていかないの?」
 若者A「チャンピオンは忙しいんだ。邪魔しちゃ悪いだろ?」
  去って行こうとする若者A。
  その背に、
 声「ルイス!ルイスじゃないか」
  振り向く若者A。
  サンチェスが手を上げている。
 サンチェス「久し振りだな、ルイス。元気か?」
  意外そうに見ている若者Aの顔が ― 自然とほころんでくる。
 若者A「ああ。久し振り、チャンピオン」

20.走っている白いポルシェ
  運転しているサンチェス。
  横に乗っている若者Aとその子供。
 サンチェス「アンタの子かい?」
 若者A「うん。四つになった。ラファエルっていうんだ」
 サンチェス「よし、ラファエル君に何かご馳走しよう」
  グッとアクセルを踏み込むサンチェス。
   *
  疾走する白いポルシェ。

21.レストラン
  席に着いているサンチェス、若者Aと子供。
  若者Aと子供 ― ボー然と放心状態。
 サンチェス「どうした?」
 若者A「おまえ、いつもあんなにとばすのか?」
 サンチェス「え?」
 若者A「150kmはでてたぞ」
 サンチェス「そうか?」
 若者A「怖くないのか?」
 サンチェス「(フッと笑い)ボクシングの試合に比べれば全然」
 若者A「やっぱり違うんだなあ」
  料理が運ばれてくる。
  目を輝かせる子供。
 サンチェス「さ、どんどん食べてくれ」
  子供、若者Aを見る。
  うなずいてみせる若者A。
  子供、ガツガツと食べ始める。
 若者A「それじゃ遠慮なく」
  若者Aも食べようとするが、フト気づいて、
 若者A「サンチェス、あんたは?」
 サンチェス「もうすぐ次の試合があるから…」
 若者A「フーン…ボクサーも大変だよなあ」
 サンチェス「でも、ボクシングもそろそろやめようと思ってるんだ」
 若者A「やめる?やめてどうするんだ?」
 サンチェス「勉強を再開しようと思ってる。メディコになるための ― 」
  エ、と見る若者A。
 サンチェス「(ニヤッと笑い)金なら十分できたんだ」
 若者A「それじゃおまえ…」
 サンチェス「オレは夢ばかり追いかけているバカ野郎さ。でも、夢は追いかけなけり
  ゃ、つかまえられない」
  うなずく若者A。
 若者A「サンチェス、頼みがある。息子と握手してやってくれないか?」
 サンチェス「ああ、お安いご用さ」
 N「しかしサンチェスが医者になることは、ついになかった」

22.深夜の高速道路
  疾走する白いポルシェ。
 N「1982年8月12日未明、次の防衛戦に備えて、サンチェスはクァナハト州イ
  トルビデ市のトレーニング・キャンプ地へ向かっていた」
  車内のサンチェス。
  同乗者はいない。
  グッとアクセルを踏み込むサンチェス。
  スピードメーターが、グンと回る。
  前に見えてくる一台の車。
  サンチェス、追い抜こうとしてハンドルをきる。
  と、突然とび込んでくるまぶしいヘッドライトの明かり。
  対向車線をトラックが猛進してくる。
  激しいクラクション。
  あわてて急ブレーキを踏むサンチェス。
  が ― 、
  正面から衝突するポルシェとトラック。
 N「一瞬だった。
   一瞬にして、メキシコの英雄はこの世を去った。わずかに23歳。まさにこれか
  ら、という時であった ― 」
  炎上している白いポルシェ ― 。

 (終)


解説


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