「栄光なき天才たち」
― 暁の超特急 吉岡隆徳 ―
作.伊藤智義
1.競技場
― 昭和10年6月9日 甲子園競技場 関東・近畿・フィリピン対抗戦 ―
2.場内放送
「…○コース××、□コース△△…」
3.スタート・ライン
並んでいる選手たち。
場内放送「 コース、吉岡」
「ワー」と湧き上がる場内。
白いハチ巻きをギュッとしめるその選手。
― 吉岡隆徳(たかよし)(26歳) ―
吉岡。
― からだが軽い。今日こそいけるかもしれない ―
*
― 100m決勝 ―
4.スタンド
レースを取材している記者A、B。
記者A「まあ、吉岡の勝利は間違いないところだな」
記者B「ええ、アジアじゃ敵なしですからね」
記者A「(見る)アジアじゃね」
記者B「(見る)どういう意味ですか?」
記者A「しょせんアジアの吉岡さ。世界には通用しない」
記者B「そんなことはないですよ。吉岡は…」
記者A「ロスアンゼルス・オリンピック、覚えているか?」
記者B「え、ええ。吉岡の力を世界に示した大会でしょ?6位入賞を果たした…もちろ
ん覚えてますよ。あの時は日本中が沸き返りましたからねェ」
記者A「オレはあの時の決勝、この目で見てるんだ。あれは…何て言うか…哀しいレー
スだった」
記者B「哀しい?」
記者A「ああ、胸がしめつけられるような哀しいレースだった…」
5.回想
― ロスアンゼルス・オリンピック(1939年(昭和7年)6月) ―
大観衆で埋まっている場内。
― 100m決勝 ―
スタートラインに立っている6人の選手たち。
声「吉岡は1コースだった」
1コースの吉岡、他の5人に比べて、ひときわ小さい。
一人だけハチ巻きをしている。
スターター「オン・ユア・マーク」
位置につく吉岡。
*
観客席。
息を飲んで見つめている記者A。
*
スターター「ゲッツ・セット」
吉岡。
バン!!
号砲一発、一斉にスタートする吉岡たち。
きれいなスタート。
吉岡、数メートルから一人抜け出す。
「ワー」
と立ち上がる観客。
記者A。
声「吉岡は得意の“ロケット・スタート”でアッという間にトップに立った」
吉岡 ― 前には誰もいない。
アナ「60mを過ぎて先頭は吉岡!吉岡速い!吉岡速いっ!」
疾走する吉岡。
― 勝てるかもしれない ―
声「そう思った瞬間、吉岡は後からゴォーという風の音を聞いたという」
吉岡の右側をゴォーという風の音とともに次々と他の選手たちが追い抜いていく。
吉岡の顔に ― 絶望感が走る。
声「80m。もう風の音はなかった。かわって、目の前に5人の背中があったという」
もがくようにゴールにとび込む吉岡 ― 。
6.甲子園・スタンド
記者A「吉岡の最大の特徴はスタートにある」
記者B「はじめの三歩で最高スピードを生むというロケット・スタートですね?」
記者A「(うなずく)」
7.図説
吉岡の走法。
記者Aの声「そして30mから80mの中間疾走の前半にスピードのピークが始まり、
後半から最後のラストスパート(20m)では、スピードが落ちてしまう」
8.甲子園・スタンド
記者A「だから吉岡は、どのレースでも前半はトップなんだ。これはいける、そう思っ
てもいつも後半でつかまってしまう。ロスアンゼルス・オリンピックの予選でもそう
だった。第二次予選。吉岡は10秒3の世界記録保持者メトカルフ相手に、80mま
では勝っていた。だが、ラストスパートで抜かれてしまう」
9.イメージ
懸命に逃げる吉岡を、圧倒的迫力で追い抜いていくメトカルフ。
10.甲子園・スタンド
記者A「(ちょっと笑って)哀しいぞォ。こういうレースを何度も何度も見せつけられ
るのは実に哀しいもんだ。もし50m走が公認の種目だったら、吉岡は間違いなく世
界最強のスプリンターなんだがなあ」
記者B「…」
*
スタート前の吉岡。
*
記者B「…それじゃナベさんは、吉岡は永遠に世界に追いつけないと?」
記者A「からだが違うよ。身長165cm、体重60kgの男には世界はムリだ」
記者B「しかし吉岡が世界を制することは日本人の夢ですし…」
記者A「夢はしょせん、夢さ」
*
グランド。
N「だがこの時、確実に一人だけは、その夢を現実のものとして考えている者があった。
吉岡本人である」
スターター「位置について」
吉岡。
― やるだけのことはやった ―
スターター「用意」
吉岡。
― あとは一本一本、精一杯走るだけだ ―
ピストル ― バン!
飛び出す吉岡。
アナ「各選手一斉にスタート!早くも吉岡一歩リード!」
スタートダッシュする吉岡。
― いけるぞっ! ―
その姿 ― かすれていき、
11.回想(練習グランド)
夕暮れ。
一人、ダッシュの練習をくり返している吉岡。
そこに友人A、来る。
友人A「(ビックリしたように)オイ吉岡。まだやってたのか」
肩で息をしている吉岡。
吉岡「ああ、もう少し…」
友人A「(フフっと笑い、つぶやく)よくやるなあ…」
フト見ると、コースのわきに手帳が置いてある。
友人A、何気なく拾って、見る。
友人A「ほう、吉岡の日記か…。ビッシリ書かれているな。なになに、練習量とタイム
の関係…スタートの科学的分析…」
ペラペラとめくってみる友人A。
友人A「なんだこりゃ。100mのことばっかりじゃないか」
*
N「当時の日本にはコーチ制度がなかった。選手は各自で練習計画をたて、トレーニン
グを積まなければならなかった」
吉岡。
N「そして吉岡は、その生活のすべてを100mにあてていた」
12.信号待ちをしている吉岡
N「例えば街を歩いていても、信号が赤から青に変わる時、瞬間にからだが動くように
訓練していたというし、」
信号、赤から青に変わり反射的に歩き出す吉岡。
13.めしを食っている吉岡
N「筋力をつけるためにはタンパク質がいいというと、そればかり食べ、」
14.ヘビ屋
N「マムシの血がいいときけば、生活費をためて週に一回、新宿に飲みに行ったという」
マムシの血を前に。ちゅうちょする吉岡。
― 意を決して目をつぶり、一気に飲み干す。
15.練習グランド
夕闇の中、一人練習を続けている吉岡。
N「吉岡の一日は、まさに100mにあけ、100mで暮れていた。そのくり返しの中
で吉岡は、次第に自信を深めていった。10秒3の世界記録は、いつか出せるだろう
と―」
*
歓声、「ワーっ」とよみがえってきて ― 、
16.甲子園競技場
大歓声の中、疾走している吉岡。
アナ「吉岡速いっ!断然速いっ!50mを過ぎてトップを快走っ!」
*
スタンド。
記者A「しかしここまでだ。それが吉岡の限界だ」
*
疾走している吉岡。
アナ「さあ残り20m!吉岡、ラストスパートっ!」
*
記者A「ここでスピードが落ちる」
*
吉岡。
*
記者A「ん?落ちない…!」
*
友人A。
立ち上がり、
「吉岡ーっ!がんばれーっ!!」
*
懸命の力走を見せる吉岡。
躍動する、その筋肉。
N「スプリンターは、走っていておよそのタイムがわかるという。自分の限界を破った
時、気持ちは昂揚し、からだは宙を浮いた感じになるという。
この時の吉岡は、まさにそうであった」
*
目の前に見える白いテープ。
*
吉岡。
*
― 世界が… ―
*
白いテープ。
*
吉岡
― 見えた! ―
テープを切る吉岡。
アナ「吉岡、今一着でゴールイン!!」
*
スタンド。
「ワーっ」という大歓声。
「いいぞーっ!吉岡ー!!」
*
肩で息をしている吉岡。
*
記者A「(Bに)オイ、今の、タイムとっていたか?」
記者B「いえ」
記者A「速かったんじゃないか?これはひょっとすると…」
記者B「あ、先輩、放送が入りますよ」
*
場内放送「ただいまの100m決勝の結果をお知らせします」
*
シーンと静まる場内。
ゴクッとつばを飲む記者A。
場内放送「一着、吉岡、関東。記録、10秒3.世界タイ記録です…」
*
「オオーっ」
と驚きが流れ、次の瞬間、
「ワァーッ!!」
と大歓声に変わる。
*
記者A「やった…やりやがった!!」
抱き合って喜ぶ記者AとB。
*
友人A。
*
吉岡 ― 快心の笑みを浮かべる。
N「日本の100mが世界の100mに並んだ瞬間であった」
*
大歓声に手を上げてこたえる吉岡。
N「それは決して、まぐれではなかった。1週間後、吉岡は再び、世界記録を出す」
17.イメージ
疾走する吉岡。
― 昭和10年6月15日 日比対抗戦(神宮) ―
テープを切る吉岡。
― 10秒3 世界タイ記録 ―
N「人びとは熱狂した。吉岡は“暁の超特急”とよばれ、その人気は頂点に達した。
迎えて翌昭和11年はベルリンオリンピックの年であった」
18.競技場
大観衆で埋まっている。
― ベルリン・オリンピック ―
N「しかし、その熱狂は次第に重圧に変わり、吉岡を押し潰していくことになる」
19.控室
気を静めるように座っている吉岡 ― 顔面そう白。
男A「(来て)オイ吉岡、顔が青いぞ。夕べはよく眠れたのか?」
見る吉岡。
男A「おまえ、睡眠薬、使ってるそうじゃないか」
吉岡「(うわ言のように)ダイジョウブ、オレは勝つよ…」
20.回想
盛大な壮行会。
「ベルリンの空に日の丸を!」
の大きな幕。
お偉さん方に囲まれている壇上の吉岡。
盛大な拍手の渦にかぶるように、
男1「勝たずして帰ってくるな」
*
男2「日本人の優秀さを世界中に示すんだ」
*
男3「がんばってくれ、吉岡君」
*
身震いする吉岡 ― 。
21.出航する船(回想)
うち振られる見送りの日の丸。
甲板上の吉岡 ― 。
22.控室(ベルリン)
心配そうに見ている男A。
吉岡。
ふと笑顔を見せ、
吉岡「大丈夫。オレは勝つ」
と立ち上がる。
そこに男B、来る。
男B「吉岡、ファンから差し入れが届いてるぞ」
と風呂敷包みを差し出す。
受け取る吉岡。
開けてみる。
― 血で認めた鉢巻き。
ドキッと見る吉岡。
顔を見合わせる男AとB。
吉岡「…」
*
N「吉岡はもはや一人のスポーツ選手ではあり得なかった。日本の海外伸長のシンボル
として、日本人の能力は決して欧米に劣るものではないということを証明するために、
“ヨシオカ”は歴史の前面に押し出されていった」
23.トラック
スタートラインに立つ吉岡。
― 第二次予選 ―
N「吉岡は、自分の意志と関係なく、国家威信のために走らざるを得なかった」
血で認めた、さきの鉢巻きをギュッと巻く吉岡。
― ダイジョウブ…オレは勝つさ… ―
スターター「ヨーイ」
吉岡 ― 顔面そう白。
スターター ― バン!
アナ「100m第二次予選、今スタート!吉岡、得意のロケット・スタートで飛び出す
かっ!?―いや、飛び出さないっ!各選手一線っ!どうした吉岡っ!」
懸命に走る吉岡。
― 勝つんだ。勝つんだ ―
だが、
アナ「どうした吉岡っ!伸びないっ!伸びてこないっ!」
N「国家的使命を背負い込んだ時、もはや吉岡はかつてのあの、純粋に世界をめざして
いた一人のスプリンターではあり得なかった」
ゴールに飛び込んでいく選手たち。
そして、もがくように吉岡。
アナ「(絶望的に)アア―っ」
N「吉岡は敗れた。10秒9.信じられないタイムで予選落ちした」
*
ボー然となっている吉岡。
― 血の気が引いて、真っ青。
フラフラっとひざをつく吉岡。
その小さな姿が、ロングになって ―
N「その“役目”を果たせず、吉岡のオリンピックは終わった」
24.熱狂がこだまするスタジアム全景に ―
N「時代は次第に戦時色が濃くなり、陸上競技にかわって中国戦線の戦時ニュースが多
くなっていった。人々はもはや“吉岡”の名を口にすることはなくなっていったとい
う ― 」
*
25.イメージ
疾走する吉岡の雄姿。
N「かつて、100mの日本記録が世界のレベルに追いつき並んだ期間が、わずかにあ
った。それが吉岡の活躍した期間であり、当時の世界記録10秒3は、以後30年間
にわたって日本記録として君臨し続ける、不滅の大記録なのであった ― 」
(終)
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