「栄光なき天才たち」

― 特別シリーズ・近代日本の科学者群像B「野口英世C」 ―

 作.伊藤智義


1.研究室
 ― 1928年 西アフリカ アクラ ―
  壁に日の丸を貼っている野口。
  男、来る。
 ― 共同研究者 ウィリアム・A・ヤング(39) ―
 野口「あ、ヤング。壁にこれを…いいかな?」
 ヤング「母国の国旗ですか?構いませんよ。それよりノグチ、サルが到着した。来て
  下さい」
 野口「やっと来たか。サルがいなくちゃ始まらんからな」
  出て行く二人。

2.本部
 ― ラゴス ロックフェラー財団黄熱病委員会本部 ―
  多くの人たちが研究に従事しているところへ男A、憤然として来る。
 A「ノグチめ!ふざけやがってっ!」
 B「どうしたんですか?ビウキス所長」
 C「(Bに)ノグチがここを避けて一人別行動をとったんで荒れてるのさ」
 A「ノグチのやつ、今度は勝手にサルを注文しやがった。私の許可なしで!」
 C「仕方ないですよ。ノグチには自由にやらせろっていうのがニューヨークの指令で
  すから」
 A「アカゲザルだぞ?しかも400匹!」
 B・C「(驚き)400!?」
 A「サルが一匹いくらすると思ってるんだ。モルモットなんかとはわけが違うんだぞ」
  ブツブツ言いながら出ていくA。

3.研究所・所長室
 ― ニューヨーク ロックフェラー医学研究所 ―
  ロックフェラーU世と所長のフレクスナー。
 ロックフェラー「ノグチは大丈夫なんだろうな?1918年のグアヤキル派遣以来、
  もう10年近く、ノグチの発見と見解が財団の方針を支配してきてるんだ。もしノ
  グチ説が誤りだなんてことがあれば、ロックフェラー財団はとてつもない無駄遣い
  をしたことになるんだぞ。社会的な信用問題でもある」
 フレクスナー「大丈夫ですよ。ノグチは最高の細菌学者ですから」
    *
 N「未知の世界を探求する自然科学の世界では間違いはつきものである。しかも野口
  は組織の中では単なる一研究者にすぎない。したがって、たとえ研究結果が間違っ
  ていたとしても、それから生じる損失にまで野口が責任をとる必要は全くない」

4.研究室(アクラ)
  研究を続けている野口とヤング。
 N「しかし、現実問題として野口は、とてつもないプレッシャーを感じていた」
 ヤング「これも違う…ノグチ、いくら捜してもイクテロイデスは見つからない。病原
  体は本当にレプトスピラじゃなく、ウイルスなんじゃないのかな?」   
 野口「かもしれん」
  タオルで汗をぬぐう野口。
 野口「ならば、そのウイルスを見つけるだけだ」
 ヤング「しかしどうやって?」
 野口「培養して見える大きさにすればいい」
 ヤング「えっ?しかしウイルスは顕微鏡でも見えない、濾過器に引っかからない、培
  養できない、そういうものだと…」
 野口「(小さく笑う)ぼくが麻痺性痴呆の患者の脳に梅毒スピロヘータを見つけた時
  もそうだったよ。当時、それは、誰がやっても決して見つからなかった。まるで幻
  のようで、その存在すら否定した人もたくさんいた。でも結局は見つかったんだ。
  つまり、それまでの人は、技術が未熟だったんだよ」
  ヤング。
 野口「要は技術の問題だ。もし、ウイルスというものが本当に存在するなら、そこに
  いるのなら、必ず見つかる。いや、見つけてみせるさ」
 ヤング「そうだな。たとえウイルスがどんなに小さくとも、培養さえできれば…」
  うなずく野口。
 ― なんとしてでも見つけなければ ―
    *
 N「しかし、もし黄熱病の病原体がウイルスなら、絶望である。ウイルスは当時の技
  術では絶対につかまらない。いくら野口が細菌学者として最高の技術を持っていた
  としても、しょせん竹やりで戦車に突っ込むようなものである。
   もし、病原体がウイルスなら野口は絶望である」

5.本部(ラゴス)
  カレンダー ― 5月10日。
 男B「ノグチがアフリカに来てもう半年か…ノグチは完全に追い込まれたな」
  見る男C。
 男B「今だにここでは野口菌イクテロイデスは見つかっていない」
 男C「ああ。黄熱病の病原菌はウイルスで間違いないだろう」
 男B「それに知ってるか?最近じゃ、狂犬病や小児麻痺の病原菌もウイルスだと考え
  る研究者が増えてきている」
 男C「ん?両方とも確かノグチが発見した…?」
 男B「そうだ。そして黄熱病…。もしかすると今、野口神話は大きく崩れ去ろうとし
  ているのかもしれん」
 男C「…」
 男A「(来る)もしノグチに、ロックフェラーあるいは世界に、君臨し続ける道が残
  っているとすれば、それは唯一つ。黄熱病の本当の病原菌を発見すること」
  見る男B・C。
 男A「アクラに行ってきたよ」
 男B「どうでした?ノグチは」
 男A「やつれてた。まるで別人みたいだったよ。ただ、相変わらず狂ったように研究
  は続けてたがな」

6.研究室(アクラ)
  夜。
  実験を続けている野口。
  ヤング、来る。
 ヤング「お?なんだノグチ、まだやってたんですか?」
 野口「(顕微鏡をのぞいたまま)なんかそれらしきものがつかまりそうなんだ」
 ヤング「今日も徹夜ですか?」
 野口「もう時間がないからな。今月末にはニューヨークに帰らなければならないんだ」
 ヤング「(イスに腰をおろし)日本人はよく働くと聞いてはいたけど、これほどまで
  とは思わなかったよ」
  フフ…と笑うが、ヤング、その視線がドキンとなる。
 ヤング「ノグチ…」
 野口「ん?(と見る)」
  その顔 ― ひどくやつれている。
  ヤング。
 ― 黄熱病か?感染したのか?まさか…。それともただの疲労か? ―
 野口「どうした?ヤング」
 ヤング「ノグチ、あなたは働きすぎだ。少し休んだ方がいい」
 野口「ハハ…ぼくなら大丈夫さ。こんなことは慣れっこだよ」
 ヤング「しかし!」
 野口「構わないから君は先に休んでくれ。ぼくにはもう時間がないんだ」
 ヤング「…」
  野口。
  壁にかかっている日の丸。
 ヤング「ノグチ、あなたはこういう話、どう思う?昔、一人のいかさま師がいた。そ
  のいかさま師が本当にいいかげんにある病原菌を発見したなどと宣言した。ところ
  がこれに科学界がコロっとだまされたとする。この時、悪いのはどっちでしょうね?」
  野口。
 ヤング「私はこう思うんだ。科学界がそれにだまされたとすれば、それはいかさま師
  の罪ではなく、そのいかさまを評価した科学界の罪だと。自然科学の世界とはそう
  いうものだと」
 野口「君はぼくがいかさま師だとでも言いたいのかね?」
 ヤング「とんでもない。私が言いたいのは自然科学の世界では間違いはつきものだと
  いうことですよ。たとえ千の間違いをしたとしても、たった一つでも大きな業績を
  あげれば歴史に名を残すことができる。そして歴史は、多くのミスを消し去り、そ
  の業績だけを浮き上がらせる」
 野口「何が言いたいんだ?」
 ヤング「あなたはもう十分歴史に名をとどめる資格のある人物だ。なのになぜ、そう
  悲そうな決意で研究を続けなければならないんです?もっとゆとりを持って取り組
  めばいいじゃないですか。なぜそんなに急ぐんです?なぜ?このままじゃからだの
  方がもちませんよ。私は…」
 野口「休みたければ、勝手に休んでくれ」
  再び顕微鏡をのぞく野口。
 ヤング「(見る)…」
  野口。
 ― 一つのミスが、取り返しのつかないことになるんだ。一つのミスで、今まで築き
  上げてきた名声が、名誉が、地位が、一ぺんで吹きとび、オレはまた、ただのつま
  らない男に逆戻りしてしまう ―

7.回想
  人々の賞賛を浴びる野口 ― 栄光の日々。
   1911年 梅毒スピロヘータの純粋培養
   1913年 梅毒スピロヘータの脳内発見
         狂犬病病原体の発見
         小児麻痺病原体の発見
   1918年 黄熱病スピロヘータの発見
     ・
     ・
     ・

  その姿が、音をたてて崩れ落ちていく。

8.研究室
  野口。
 ― そんなことは断じて… ―
  野口、イスから立ち上がる。
  そのとたん、フラーと倒れる野口。
 ヤング「(ハッとなる)ノグチ!」

9.本部(ラゴス)
  男D、飛び込んでくる。
 男D「大変だっ!ノグチが黄熱病で倒れたっ!」
 「えっ」
  驚いて見る一同。
 男B「(ハッとなり)自殺か?」
 「なんだって!?」
 男B「研究結果に絶望して、わざと蚊に刺されたんじゃ…」

10.病院・廊下
  男たちが忙しく動き回っている。
 男1「(男2をつかまえて)オイ、すぐに密閉できる棺桶を用意しろっ!」
 男2「え?」
 男1「ノグチにもしものことがあったら、そのままニューヨークに送るんだ」
 男2「バカなこと言わないで下さいよ。黄熱病患者をニューヨークに上陸させること
  など、できるわけないでしょう」
 男1「相手を誰だと思ってるんだ。ノグチだぞ?ロ研のノグチだ」
 男2「いくらノグチでも…」
 男1「いいからやるんだ。これは上からの命令だ」
 男2「しかし!」
 男1「全責任はロックフェラーが持つ!」
    *
  病室・前。
  ドアの取手に手をかけたまま、その様子を見ているヤング。
 ヤング「…」
  ヤング、病室に入っていく。

11.病室
  寝かされている野口。
  ヤング、来る。
 ヤング「どうですか?具合は」
 野口「ああ、大分よくなったよ」
  ヤング、持ってきた花を花びんにさす。
 野口「(ポツリポツリと)日本を離れて、もう30年近くになるな…アメリカに渡っ
  て…ヨーロッパにも行ったし、南米にも行った。そしてついにはアフリカにまで来
  てしまった。ハハ…」
 ヤング「休養できるいい機会ですよ。あなたは今までガムシャラに働き過ぎてきたん
  ですから。どうです?この際故郷にでも帰って一年くらいのんびりされては」
  見る野口。
 ヤング「まあ、もっともロックフェラーが手離さないでしょうけどね」
  野口 ― 寂しそうに小さく笑う。
 野口「ところで君は大丈夫か?」
 ヤング「ええ、この通り」
 野口「それは良かった。だけど…」
  ヤング。
 野口 ― 天井を見つめている。
 ヤング「何か食べますか?」
 野口「(ポツリと)どうもぼくにはわからない…」
  その光景、ロングになって、
 N「それが最期の言葉であった。1928年5月21日 西アフリカ ガーナのアク
  ラにて野口英世、死去。52歳」

12.新聞見出し
 “野口英世博士アフリカで客死す”
 “逝(ゆ)ける学界の巨星”
 “大黒柱を失って痛惜のロ研究所”
       (東京朝日5/23)
 N「野口の死はただちにニューヨークに打電され、すぐに新聞で世界に拡まった。ど
  の新聞も“科学の殉教者”“平和の英雄”“野口の教訓”というような見出しでセ
  ンセーショナルに扱った。ヨーロッパではともかくとしても、野口はアメリカで、
  南米で、そして日本では、間違いなく英雄であった。
   しかし ― 、」

13.イメージ
  タバコ・モザイク・ウイルスとそれを結晶の形でとらえたスタンレー(写真)。
 (1935年、ウイルスは“結晶”として取り出され、各方面に衝撃を与えた)
 N「野口の死後、十数年を経て本格的に始まったウイルス学は、狂犬病、小児麻痺、
  そして黄熱病と、野口があげた偉大な業績を次々と否定していくのである」

14.イメージ
  野口。
 N「日本人にとって野口英世は、間違いなく英雄の一人である。しかしその実像に迫
  る時、それはあまりに哀しい英雄であった ― 」


  (終)



 解説


[戻る]