「栄光なき天才たち」
― 特別シリーズ・近代日本の科学者群像A「山際勝三郎」 ―
作.伊藤智義
1.スウェーデン・カロリンスカ医科大学
― 1926年 ノーベル賞選考委員会 ―
A「それでは本年度のノーベル医学生理学賞はデンマークのヨハネス・フィビガーで
よろしいですね?」
B「ガンの成因をつきとめ、史上はじめて人工的にガン発生させたんですから、文句
はないでしょう」
C「待って下さい。人口ガンの研究についてなら、私はむしろ日本のヤマギワを買い
たい」
見る一同。
C「フィビガーの実験については少数ではありますが異論が出ています。それに引き
かえヤマギワの業績は紛れがない。しかも、現在のガン研究の中で、ヤマギワの業
績は極めて重要な位置を占めている。ガンの実験研究が可能になったのは、まさに
ヤマギワのおかげだと言っても過言ではありません。私は、本年度のノーベル医学
生理学賞に、ヤマギワを強く推薦いたします」
2.表
1889年 破傷風菌の純培養 北里柴三郎(内務省)
1894年 ペスト菌の発見 北里柴三郎(伝研)
1897年 赤痢菌の発見 志賀潔(伝研)
1900年 アドレナリンの結晶単離 高峰譲吉(米国在住)
1910年 梅毒治療薬サルバルサンの発見 秦佐八郎(伝研)
1910年 オリザニン(ビタミンB1)の発見 鈴木梅太郎(東大農学部)
1913年 進行性麻痺患者の脳内におけるトレポネーマ・パリズムの証明
野口英世(米国ロックフェラー研)
1914年 ワイル病スピロヘータの発見 稲田竜吉(九大)
・
・
・
N「北里をはじめとして近代日本医学界は、そのスタートから、続々と世界的業績を
生み出していった。しかしそこには、みごとなまでに、日本医学界を支配していた
東大医学部の名前が出てこない。ただ一人の例外を除いては」
3.東京大学
N「研究業績において、北里・伝研側に圧倒されていた当時の東大医学部で一人気を
はいた男、山極勝三郎は、東京大学医学部病理学教室の、第二代教授であった」
4.研究室
実験に従事している人々。
― 1913年 東大医学部病理学教室 ―
そこに山極勝三郎(52)、姿を現わす。
急に忙しそうになる研究者たち。
山極「あ、長與君」
聞こえぬフリの研究者A。
A「えーと、実験動物の方はどうなったかな。ちょっと見てくるか」
「あー、忙しい忙しい」
とスーと出ていくA。
山極「…。(振り向き)三田村君、君はヒマかい?」
B「とんでもありません。今から会議なもので。失礼します」
山極「…」
*
研究者C、D、こそこそと、
C「どうしたんだい、みんな。山極先生が来たとたん…」
D「山極先生が助手を探しているんだ」
C「助手?」
D「あの、ウサギの耳にひたすらコールタールを塗るっていうやつだ」
C「え、まだやってたのか、あれ」
D「なんでも、勝沼博士が一ヶ月ももたずに逃げだしたっていう話だ。 ― まずい。
先生がこっちを見てる。手を休めるな。少しでもヒマな素振りを見せると、引きず
りこまれるぞ」
忙しそうに立ち振る舞うCとD。
C「ああ、こっちに来る…」
来る山極。
その時、
声「こんにちは」
振り向く山極。
若い田舎者が立っている ― 市川厚一(25)。
市川「東北大学農学部を卒業し、今日からこちらでしばらく研究させていただくこと
になりました市川厚一です。よろしくお願いします」
山極、一転して笑顔で歩み寄ってくる。
山極「私はこの病理学教室で長をしている山際だが、さっそくで何だが君、私の研究
を手伝ってみないか?」
市川「山極先生みずからの?光栄です。よろしくお願いします!」
頬を紅潮させ、深々と頭を下げる市川。
山極「ウム、ウム」
と満足そうな表情。
*
D「(つぶやく)かわいそうに」
5.動物飼育小屋
ウサギばかりが飼われている。
市川「ウサギですか…どれくらいいるんですか?」
山極「100はいるはずだ。これを四群に分ける。第一群は、皮膚の再生を促すシャ
ーラッハロートという薬を注射するのと、同じ部分にコールタールをこすりこむの
を一日おきに行う。第二群は、耳に切り傷をつくって、シャーラッハロートとコー
ルタールを一日交代で塗ってこすりこむ。残りの二群は対照用だ。第三群は、ピン
セットで耳の一定部分を毎日一回こする。第四群は、さらにエーテルでふく」
真剣に聞いている市川。
山極。
市川「(けげんそうに)それだけですか?」
山極「そうだ」
市川「それだけでガンが造れるんですか?」
山極「(キッパリ)造れる」
*
N「当時、ガンの発生原因には、大きく分けて三つの理論が立てられていた。刺激説
と迷芽説と素因説。刺激説はガンの原因を反復刺激による後天的なものとし、迷芽
説と素因説は遺伝等による先天的なものとしていた。
山極は、刺激説を信じていたのである」
6.動物飼育小屋
ウサギの世話をしている市川。
ウサギのフンをわしづかみにしてバケツに入れる。
「ウヒャー、クセェなあ」
と研究者C、D、通りかかる。
見る市川。
C「君も大変だねえ、市川君。毎日毎日ウサギの世話かい?」
市川「はい。でもぼくは畜産科の出身ですから、これぐらい平気です」
D「先生も頑固だからねェ。コールタールでガンができたら、誰も苦労はしないのに
…」
市川「でも、先生の話だと、ヨーロッパではエントツ掃除夫に皮膚ガンが異常に多い。
それはエントツ内のススが原因だろうって。ですから…」
C「君は知らないのかもしれないけど、こういう実験は、何も先生が初めてじゃない
んだぜ。ウサギの耳にコールタールを塗る実験だって何人かがすでに試している。
しかし、いずれも失敗している。どういうことだかわかるかい?」
D「先生は頑固だからねェ…」
声「誰が頑固だって?」
振り向くC、D ― ドキッとなる。
山極が来ている。
C「あ、先生。わ、私たちは何も…(Dに)早く研究室に戻らないと…」
D「あ、そうそう」
二人「失礼します!」
あたふた逃げていくC、D。
山極「フン」
市川「…」
山極、ウサギを手にとって、見る。
山極「確かに今までは誰も成功していない。しかしそれは、みな実験を長くても二ヶ
月程度しか続けなかったからだ。エントツ掃除夫にしたって、発症まで10年はか
かっている。それを考えてみたら…ガンは必ずできる。必ず…」
山極、突然セキこみ、血を吐く。
市川「(ビックリ)先生!」
7.山極家・寝室
寝かされている山極。
心配そうに付きそっている市川。
山極「なあに、心配することはない。こんなことはよくあることだ。なにせ私は結核
と付き合って20年にもなるんだからな」
市川「…」
山極「それにしても、うちがあまりにみすぼらしいんで、驚いたろう」
市川「いえ」
山極「医学界じゃ少しは名の知れた山極も実態はこんなもんだ。病弱で貧しい…ハハ
ハ…(と力なく笑う)」
市川「先生は…」
山極「ん?」
市川「ガンは本当にできると、考えておられるんですか?」
見る山極。
市川「(あわてて)あ、すいません。実験が辛いとか嫌になったとかいうわけじゃな
いんです。ただ、まわりでいろいろ言うもんですから…」
山極「できる。動物の命のある限り、私の寿命のある限り実験を継続すれば、必ず…」
市川「…」
8.動物飼育小屋
ウサギの耳に筆でコールタールを塗っている市川。
― 鉄の意志か… ―
9.食堂
食事をしている研究者C、D、E。
C「市川のやつ、まだ続けてるらしいな」
D「え?もう二ヶ月にもなるじゃないか。毎日毎日ウサギの世話か?」
C「さすが東北人だよ。あの根気には頭が下がる」
D「しかしうちの大先生にも困ったもんだなあ。コールタールでガンをつくるだなん
て。みんながソッポを向いちゃったから、よけいムキになってるんだろうな」
「ウン、ウン」とうなずくC。
E「そうかなあ」
見るC、D。
E「オレはやっぱりすごいと思うなあ。オレたちに自分の生涯を賭けるほどのものが
あるか?人と同じことやってたんじゃ、やっぱり人並で終っちまうんだよ」
C「それじゃオレたちにも不可能に挑戦しろっていうのか?」
D「不可能っていうのは、できない、てことなんだぞ。時間のムダじゃないか。オレ
たちにそんな余裕はないぞ。まだまだ勉強しなければならないことがたくさんある
んだ」
C「そうだ。足踏みしていたら、いつまでたっても世界に追いつかない」
D「我々の任務は、」
E「わかってるさ、そんなことは。だけど本当にそれでいいのかな。確かに我々は学
者にはなれるかもしれない。しかし科学者には…」
C「いいも悪いもない。それが我々の道なんだ」
D「こう言っちゃなんだが、ああいう仕事は我々には似合わない。東北の畜産科出身
の市川だからこそ似合う」
そこに市川、息を切らせて来る。
市川「あ、すいません、山極先生、見かけませんでしたか?」
C「いや」
D「どうしたんだい?そんなにあわてて」
市川「できたんですよ。腫瘍が。ウサギの耳に」
「なんだって!?」
10.動物飼育小屋
ウサギを手にとって見ている山極。
それを囲むように市川、研究者C、D、E。
ウサギの耳は確かに皮膚がただれ、盛り上がって腫瘍化しているように見える。
山極、メスで薄く切片を切りとる。
11.研究室
顕微鏡をのぞいている山極。
山極「(顔を上げ、首をふる)とてもガン化しているとは言えんな。良性の腫瘍だ」
市川「(残念そうに)そうですか」
研究者C、D、なぜかホッとする。
― そうさ、ドイツの論文にもはっきり出来ないと書いてあったんだ。いくら山極先
生が偉大だからって… ―
山極「(市川に)まだ二ヶ月だからな。こんなもんだろう。よし、予備実験はこのく
らいにして、本実験を開始しよう」
市川「はい」
研究者C・D・E、驚いて見る。
― この人は、あきらめるということを知らないのか ―
12.動物飼育小屋
ウサギの世話をしている市川。
N「本実験は1914年4月から始まった。途中、寄生虫によってウサギが次々に死
ぬというハプニングにあいながらも、新しいウサギを補充しながら実験は続けられ
た」
13.山極家・寝室
N「ちょうどその頃、結核でしばしば床についていた山極のもとに、フィビガーの人
工ガン成功のニュースがもたらされた」
床で論文を読んでいる山極。
― 先を越されたか ―
山極「…ま、あせっても仕方ない。我れは我が道を行くのみ…」
14.動物飼育小屋
黙々とウサギの世話をしている市川。
研究者C、来る。
C「残念だったな、市川」
市川「何がですか?」
C「あれ?おまえ、まだ読んでないのか?デンマークのフィビガーがガンの原因を突
きとめたんだぞ」
市川「(そっけなく)へえ」
C「それによるとガンの病因は寄生虫だということだ。ネズミの胃ガンを調べた結果
だがな。しかも、その寄生虫を使って人工的にガンをつくりだすことにも成功して
いる」
市川「そうですか」
C「…おまえ、平気なのか?」
市川「何がです?」
C「何がって…」
市川「ぼくが今興味を持っているのは、この実験でガンができるかどうかだけです。
ここまできた以上、最後の結果を見届けたい。フィビガーの論文はその次です」
C「おまえ、だんだん山極先生に似てくるな」
市川「(ニヤッと笑い)ガンはできますよ。フィビガーができたっていうのなら、ぼ
くらにだって…」
*
N「夏が過ぎ、冬が来て、年が変わっても実験は続けられた。
伝研騒動で医学界が揺れ、第一次大戦で社会が大きく揺れ動いている時、その時
代から取り残されたように山極と市川は、自分たちの信念のみを支えに、黙々と実
験をくり返していた。
そして ― 」
*
― 1915年5月 ―
ウサギを山極に見せる市川。
そのウサギ、ずい分弱っている。耳には穴が。
ハッと見る山極。
15.研究室
顕微鏡をのぞきこんでいる山極 ― みるみる顔つきが変わってくる。
山極「市川、これか!」
市川「はい」
*
N「人工ガン、ついに成る。
世界の学会はことの重大性に驚き、この業績に対して惜しみない称賛をおくった
という。
すべての本格的なガン研究はここからはじまるのである」
うれしくてじっとしていられない山極 ―
― 「成功、成功」と歩き回る。
市川は、感極まって泣いている。
その二人の姿、ロングになって ―
16.ノーベル賞授賞式
メダルを受ける科学者。
盛大な拍手。
N「1926年度のノーベル医学生理学賞は結局、フィビガーの手に渡る。
しかし、後に、フィビガーの寄生虫による発ガンの発見は誤りであることが明ら
かにされる。フィビガーの対立候補であった山極・市川のタール発ガンの研究こそ、
ガン研究史上不滅の業績であったのである。
*
しかしフィビガーはそのことを知ることもなく1929年に、そして山極も翌1
930年に、それぞれ他界する」
17.イメージ
山極と市川。
N「山極勝三郎 ― 彼は日本よりも海外でその名を知られる数少ない日本人の一人で
ある」
(終)
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