「栄光なき天才たち」
― 特別シリーズ・近代日本の科学者群像B「野口英世@」 ―
作.伊藤智義
1.研究所
深夜。
― 1910年 冬 アメリカ ニューヨーク ―
ただ一つ、灯がついている部屋がある。
2.同・研究室
その部屋では一人の日本人が、実験を続けている。
口にはタバコ ― 灰が長くなっている。
N「(かぶって)日本で北里・伝染病研究所と青山・東大医学部が激しく対立してい
る頃、その争いにも加われなかった男がアメリカにいた」
ドアが開き、守衛が顔をのぞかせる。
守衛「ノグチさん、今日も遅いんですか?」
振り向く野口英世(34)。
野口「あ、守衛さん。私のことはいいから、先に帰って下さい」
守衛「すいませんね。それじゃ、もう所内には誰もいませんから、あとよろしくお願
いします」
行く守衛。
野口「さてと…もう一(ひと)踏ん張り…」
とタバコをもみ消す。
N「日本における最大の偉人の一人、野口英世。彼は、日本においては、その活躍の
場すら与えてもらえない程の立場にいたのである」
3.研究所・全景(昼)
― ロックフェラー医学研究所 ―
N「アメリカ最大の富豪、ロックフェラーが設立した私設研究機関。1906年に正
式に活動を始め、野口はその時からの所員である」
4.所長室
ジョン・D・ロックフェラーU世と所長のフレクスナー。
ロックフェラー「フランスには世界最大のパスツール研究所、ドイツにはベルリンの
コッホ研究所とフランクフルトのエールリッヒの研究所、つい最近近代化したばか
りの日本にも北里の伝染病研究所がある。そこでこのアメリカにも近代的な研究所
を作った。ところがどうだ。今だに大した業績があがっとらん。おまえたちは何を
やっとるんだ」
フレクスナー「そうはおっしゃられても、研究というのは二年や三年でポンポンでき
上がるというものではありません」
ロックフェラー「しかし世間は注目してるんだ。あのロックフェラーが医学研究所を
作った、何が飛び出すかってな」
フレクスナー「それならば、もうしばらくお待ち下さい。今、梅毒と取り組んでいる
者がおりますから」
ロックフェラー「梅毒? ― フム、人類の敵梅毒か…見込みはあるのか?」
フレクスナー「それは何とも…」
ロックフェラー「誰がやってる?」
フレクスナー「ノグチです」
ロックフェラー「ノグチ? ― ああ、あのチビの日本人か」
フレクスナー「なりは小さいですが、仕事は猛烈に…」
ロックフェラー「たしか、おまえの唯一の子飼いだったな」
フレクスナー「はい。裸同然でアメリカにやってきて、何の因果か、世話をしていま
す。もう10年になりますが…」
ロックフェラー「まあいい。誰が何をやろうと構わん。朗報を待っているぞ」
フレクスナー「はい」
出ていくロックフェラー。
5.研究室
実験を続けている野口。
そこに所員A、来る。
A「ほら、タバコ、持ってきてやったぞ」
野口「いつも悪いな」
A「昨日も徹夜かい?」
野口「ここ(アメリカ)は競争社会だからな。早いところ、何か一つ業績を上げないと
…」
A「確かにそうだが、そんな調子じゃ体の方が先にブッこわれちまうぜ」
野口「しかたないさ。オレのような外国人は特にいつ首を切られるかわからんからな」
A「あんた、日本には帰らないのか?」
見る野口。
A「聞いた話じゃ、日本では、二、三年も海外に遊学すれば、それだけで相当な地位
につけるっていうじゃないか。ノグチなんか二、三年どころじゃないだろう。もう
…」
野口「10年だ」
A「だったら。こんな厳しい所にいるより…」
野口「オレに帰る所なんかないよ」
A「(見る)」
野口「日本にはオレのいられる場所なんかない。…オレには学歴がないからな」
A「学歴?」
野口「日本とアメリカじゃ違うんだ。日本じゃ実力以前に、まず“学歴”ですべてが
決まってしまうんだ」
6.イメージ
当時の日本。
N「明治とともに始まった日本の近代化の最大の特徴の一つに、身分制度の廃止と、
新たな身分制度の導入がある。“知”を基準にした身分制度で、学歴社会の始まり
である。『皇族といえども東大に入れず』という言葉が示す通り、それは徹底して
いた」
*
入試風景。
N「徹底したエリート育成と、非エリートとの分画。学歴さえ有していれば、貧しい
生まれであっても相当な地位にのぼれたが、それは青年時代の一時期で決まってし
まうのである」
7.イメージ
農村。
N「野口英世は福島の貧しい農家に生まれた」
*
野口の生いたち。
N「幼い時に左手に火傷を負ったのは有名である。
高等小学校を卒業後、私塾済生学舎で六ヶ月医学を勉強する ― これが野口の学
歴のすべてである」
*
伝研。
N「その後、一年間、伝染病研究所に所属する。志賀潔をはじめとして帝大出の俊英
たちが顔をそろえる伝染病研究所で、それは異例の採用であった」
*
青山胤道。
N「しかしいくら北里・伝染病研究所といえども、東大教授でありながら農学部とい
うだけで鈴木梅太郎が疎外された時代である。野口に活躍できる場はなかった。当
時の日本には、野口が成功する道はあり得なかった」
*
船上の野口。
N「それを肌で感じた野口は、24歳の時、その生涯を賭けて、渡米するのである」
8.研究室
野口「だから、もしここを追い出されでもしたらオレはおしまいだ」
A「フーン、結構大変なんだな…ん?ちょっと待てよ。あんた確か、履歴書には東京
医科大学とかいう所に三年間在籍していたって書かなかったか?」」
ドキッと見る野口。
A「ウン、確かにそうだ。今年の所内報にもそう載っていたぞ。間違いない」
野口「あれは…嘘だ」
A「嘘!?」
野口「(困惑。が、開き直って)…ウソぐらいつくさ。オレは何だってやるよ。要は
実力だろ?業績を示せばいいんだろ?そういう社会じゃないか、アメリカ(ここ)は。
ウソやハッタリで身を固めて、ひたすら上をめざす。そこにあるのは勝者か敗者、
二つに一つ。だったらオレは…」
そこに所長のフレクスナー、来る。
フレクスナー「どうだ、ノグチ、調子は?」
野口「あ、所長…ええ、まあまあというところです」
フレクスナー「まあまあか、フム…で、梅毒の純培養は、メドが立ったのか?」
A「(驚き)梅毒の純培養!?」
野口「(フレクスナーに)まだそこまではいってませんが、可能性は…」
フレクスナー「ウム。期待してるぞ」
野口「はい」
出て行くフレクスナー。
A「おい野口、おまえいつから梅毒をやってるんだ。蛇毒の研究はどうした?」
野口「蛇毒じゃインパクトが弱い」
A「そりゃ確かに梅毒なら世界中の注目を集めるだろう。けどな、梅毒の純培養は世
界中で何十人もの研究者が挑戦して、ことごとく失敗している。現在の技術じゃ不
可能だとも言われ始めてるんだぞ?」
野口「しかし蛇毒じゃ、永遠にトップには立てん」
A「(見る)…本当に見込みはあるのか?」
野口「…」
A「焦りすぎじゃないのか?期待を裏切った時の反動は…、すべてを失うぞ」
野口 ― 。
9.日本料理屋
一人酒を飲んでいる野口。
野口「焦りすぎか…しかし、焦らなければ、消えてしまう…」
「カンパーイ!」
と突如、盛大な声が上がる。
見る野口。
送別会。
男1「(男2を横にして)二年間の留学生活を終えていよいよ来週、今井君は日本に
帰ることになりました。帰国後は天下国家のために一生をささげる決意でおられま
す。まずは本人から一言」
拍手。
男2「本日は私の送別会に多数お集まり頂きまして誠にありがとうございます。みな
さんより一足お先に日本に帰りますが、帰国後は日本のためにアメリカ留学の成果
を…」
野口「(吐き捨てるように)フン、くだらん…」
男2、口が止まる。野口を見る。
男2「今、なんと?」
野口「(ハッキリ)くだらんと言ったのだよ」
男2「(見る)」
男1「なんだと?」
殺気だってくる一団。
野口「わずか一年や二年、外国で勉強…いやブラブラ遊んだだけで日本に帰れば博士
気取り。実力もないくせに肩書きだけで生きようとする。そんなヤツを重用してい
る日本もバカげているが、いい気になっているヤツはもっと…」
男1「言わせておけばこのオヤジ…」
男2「(制して)あんただって同じだろう。日本で待っているのは政治家のイスか?
学者のイスか?故郷(くに)へ帰ればお大尽だろう」
野口「フ、フザケルナ!おまえたちと一緒にするんじゃないっ!オレは…」
男1「フザケてるのはおまえの方だ!」
殴りかかる男1。
ふっとぶ野口。
「キャー」
という悲鳴。
それを合図に集団が襲いかかる。
崩れる食卓。
倒れるテーブル。
10.店・外
コップが飛んできてはじける。
女の叫び声。
「やめてー!やめてよっ!」
その上空 ― 、
11.きれいな星空
その下 ― 、
12.動物園
地べたに大の字になってのびている野口。
泥まみれの服。
アザだらけの顔。
だが、目だけはランランと輝いている。
― 帰る所があるヤツはいい ―
厳しい表情のまま上体を起こす野口。
手で口をぬぐう ― べっとりと血がつく。
野口「…」
― 日本に帰れるヤツはいい ―
懸命に立ち上がる野口。
フラフラッとなるが、かろうじて手すりにつかまる。
― オレは… ―
野口、フト見る。
― オレは… ―
オリの中、光る眼がこちらを見つめている。
つばを飲む野口。
のそのそとやってくるケモノの影 ― ライオン。
野口「…」
ライオン、突如飛びかかってきて吠え立てる。
野口 ― 。
― この異国の地で、オレは、従順な羊のように働いて、結局ライオンのエサとなっ
て食い尽くされるのか… ―
*
フラフラと去っていく野口 ― 。
13.研究所(昼)
14.研究室
研究者A、来る。
A「相変らずガンバッてるな、ノグチ」
野口「やるしかないからな」
A「おい、どうしたんだよ、その顔は。ケンカか?」
野口「いや…」
A「少し手伝ってやろうか?この試験管、洗うのか?」
野口「あ、触るな!」
ビクッと手をとめるA。
野口「あ、すまん…」
A「いや…」
野口「オレは頭で勝負するタイプじゃない。信じられるのはこの腕だけだ。だから、
自分の実験はすべて自分で納得いくまで…すまん」
A「いや」
*
N「野口は典型的な職人的医学者であった。新しい理論や技術を生み出すことは決し
てなかったが、既存の技術を極限まで押し進めた。その意味で野口は、コッホに始
まる細菌学的医学の頂点に立つ、最後の一人であった。
そしてその世界一ともいわれる技術(テクニック)が、野口神話を生み出し、そし
て後には悲劇へと導いていくことになるのである」
*
実験を続けている野口。
そこにかぶって、
N「トレポネーマ・パリドゥム(梅毒スピロヘータの学名)は梅毒患部から採取され
た病的材料からは直接培養できない。他の細菌がすぐ繁殖して圧倒するからである。
しかし梅毒の毒素はウサギの睾丸ではよく成長し、他の雑菌は死んで、ほぼ純粋培
養菌が得られる。ウサギの睾丸で殖やした材料をウマ、ヒツジ、ウサギなどの血清
からなる人工培地にうつし、そのなかに栄養分として睾丸の切片を加える。それを
空気が入りこまないように厳重に嫌気性を保てる状態で培養する。その培養をさら
に別のウサギの睾丸に接種して培養する。このようにして十三代にわたってウサギ
の睾丸で継代して、培養の純度を高める。そしてさまざまな栄養分を入れた何百と
いう試験管を立てて培養を試み、何千というスライドをつくるという途方もないや
り方をくり返した」
N「そしてついに野口は、」
一本の試験管をかざして見てハッとなる野口。
N「試験管に典型的なトレポネーマに見える菌が成長してくもりがあるのを見つけた
のである」
*
とび込んでくる研究者Aと所長。
A「ついにやったんだって!?」
所長「成功したのか、ノグチ!」
試験管をかざして見せる野口。
野口「顕微鏡下で確かめました。間違いありません」
所長「おお…よくやったぞ、ノグチ」
N「1911年8月、ロックフェラー医学研究所は“トレポネーマ・パリドゥムの純
培養に成功した”と発表。野口英世は一躍世界の医学界に顔を現す。
*
しかしその後、野口の方法によって多くの人が追試を試みたがどれもうまくいか
なかった。野口の純粋培養は偶然的要素が重なったためか再現性がなかったのであ
る」
15.顕微鏡をのぞいている野口
― オレの純粋培養にケチがつくというのなら、今度はこれで頂点をつかんでやる ―
16.研究所・食堂
食事をしている研究者B、C、D。
B「オイ、聞いたか?ノグチのやつ、今度は脳梅毒の研究を始めたらしいぞ」
C「脳梅毒?」
*
N「梅毒の最大の悲劇は、その末期に脳がおかされて精神障害をきたし、死に到ると
いうことである。当時、精神病患者の40〜50%を占めていた麻痺性痴呆や脊髄
癆は梅毒による疑いが強くもたれていた。しかしその証拠は何一つ得られていなか
った」
17.研究室A
E「もし麻痺性痴呆患者の脳内にトレポネーマ・パリドゥムが見つかってみろ、一大
発見だ」
助手F・G「(見る)」
E「それは、今まで得体の知れなかった精神病がはっきりした病因を持つことを意味
する。つまり治療も可能だということだ」
F「精神医学の歴史が大きく転換するというわけですか」
18.研究室B
H「しかし、今までに何人もの人たちが研究を続けているのに見つからない代物です
よ。本当は脳内にトレポネーマ・パリドゥムなんてないんじゃないですか?」
I「あるいはな。しかし、もし、いるのなら、あのノグチなら見つけてしまうかもし
れん。再現性が確認されてないとはいえ、トレポネーマ・パリドゥムの純粋培養に
成功した男だからな。梅毒に関しちゃ、今やノグチの技術は世界でも指折りだろう」
19.廊下
A「問題はいるか、いないか…」
20.(野口の)研究室
A、来る。
A「おいノグチ、調子はどうだ?今やおまえ、所内の注目の的だぞ」
A、野口の方に歩み寄るが、フト足を止める。
プレパラートを次々にとりかえながら、その一枚一枚を顕微鏡で丹念に調べている
野口。
山のように積まれている試料。
野口。
― いるものはいる…いるものはいる… ―
何かにとりつかれたかのように調べていく野口。 ― Aの存在にも気づかない。
そこには一種、鬼気迫るものさえ感じられる。
A「…」
野口 ― 。
21.廊下
A。
― ノグチをあれほどかりたてるものは何なんだ… ―
22.ひたすら研究を続ける野口
その姿に、
N「野口は、常人ではとても考えられないほどの労力を実験に注ぎ込む。麻痺性痴呆
の脳200と脊髄癆の脊髄12を集め、無数の切片を作成し、各種の染色法で染め
た。一染色法につき200枚、その一枚一枚を丹念に調べていった」
野口。
― いるものは、いる ―
N「研究室で、自宅で、昼となく、夜となく、研究は続けられた」
23.深夜の街
N「そして1913年夏、すべてが静まり返った深夜 ― 」
24.野口家
顕微鏡をのぞいている野口。
― いるものはいる。いるものは… ―
25.顕微鏡下
図 [脳実質内でみいだされたトレポネーマ・パリドゥムの拡大写真]
― いた! ―
26.野口
― 興奮。
「いたっ!見つけた。ハハハ…見つけたぞっ!」
「見つけたぞーっ!」
と部屋を飛び出していく。
27.通り
大はしゃぎで駆け回る野口。
真夜中の家々に灯がつき、苦情が出る。
「何時だと思ってんのよっ!」
かまわずはしゃぎ回る野口。
N「この時期野口は、梅毒スピロヘータの脳脊髄内発見、純粋培養の成功をはじめと
して、新しい梅毒診断法(酪酸反応および皮内反応)の発見、さらには小児麻痺の
病原体発見、狂犬病病原体の発見と続々と発表、一躍世界の頂点に駆け上るのであ
る」
(@・終)
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