「栄光なき天才たち」
― 特別シリーズ・近代日本の科学者群像B「野口英世A」 ―
作.伊藤智義
1.学会
― 1913年9月 (ウィーン)ドイツ自然科学・医学者会議 ―
満席の盛況。
N「ドイツの学界最大のお祭りである」
司会者「さあ皆様お待ちかね。今年の目玉はこの人。アメリカから招待いたしました。
ご紹介いたしましょう。ドクトル・ノグチ!」
沸き起こる拍手。
出てくる野口。
拍手、一層高くなる。
N「梅毒診断法の発見、トレポネーマ・パリドゥム(梅毒スピロヘータ)の純粋培養、
トレポネーマ・パリドゥムの脳脊髄内発見、小児麻痺病原体の発見、狂犬病病原体
の発見と、次々と大偉業を発表し続けた野口は、新興アメリカからすい星のごとく
現われた、この年最大のスターであった」
*
スライドに写し出される顕微鏡写真。
野口「これが麻痺性痴呆患者の脳内に発見されたトレポネーマ・パリドゥムです」
「おお」
と、どよめきが起こる場内。
野口「そしてこれが…」
得意の絶頂 ― 野口。
2.駅
出てくる野口。
― 驚いて見る。
盛大な出迎え。
男A「ようこそミュンヘンに」
握手を求めるA。
野口「(信じられないという表情)ドイツ医学会長のミュラー博士が私の出迎えに?」
A「なあに、今じゃ私よりもあなたの方が有名ですよ、ノグチ博士」
3.各地で講演している野口。
ミュンヘン。
フランクフルト。
コペンハーゲン。
オスロ。
ストックホルム。
ロンドン。
ベルリン。
・
・
N「野口は51日間の滞欧中に10の都市を訪れ、11回の講演をし、38回の晩さ
ん会に主賓として招待され、スウェーデン、オーストリアの二ヶ国では皇族の接見
まで受けている」
野口。
N「野口英世、人生最高の年であった」
4.晩さん会
宴たけなわ。
男B「いやあ、しかしあなたの人気もすごいもんですなあ。ノグチ博士。来年のノー
ベル賞はあなただろうと、もっぱらの評判ですよ」
野口「ノーベル賞?私がですか?とんでもない」
男C「またまたご謙そんを」
ハハハ…と笑いがもれる。
野口 ― その笑顔に、
― ノーベル賞か…できるものなら、ぜひ… ―
N「1914年、1915年と二年続けて野口は、ノーベル賞有力候補約10名の中
に入っている。しかし1915年から第一次世界大戦のため4年続けて受賞者なし
という異常事態が重なったこともあって、結局、ノーベル賞受賞は果たしていない」
男D「しかし野口博士、今日お会いして初めて知ったんだが、博士は日本人だそうで
すね?私はてっきりアメリカ人だとばかり思っていましたが…」
野口「ええ、私は日本人です。アメリカに渡ってもう10年以上になりますが」
D「日本には帰らないんですか?」
野口「(見る)」
D「日本でも首を長くして待ってるんじゃありませんか?博士ほどの人物は日本にと
っても、非常に名誉でしょうから…」
野口。
― 日本か… ―
5.洋上
― 1915年9月 ―
船。
乗っている野口 ― そわそわして落ち着かない。
男E「もうすぐ博士の故郷、日本に着きますね。16年ぶりだそうですね」
野口「ああ」
よみがえる、かつての日々。
6.回想(赤ちょうちん)
仲間と騒いでいる若き日の野口。
オヤジ「おい野口、ほどほどにしとけよ。毎日毎日…。研究所は行かなくていいのか
い?せっかく入れてもらったんだろう」
野口「へっ、何だよ、あんな所。みんな学校出てるからっていい気になりやがって。
オレは使いっ走りじゃねえぞ。実力だけなら誰にも負けないんだ」
オヤジ「ほう、オレにはただの酔っぱらいにしか見えんがな」
野口「なめんなよ。オレは必ず大物になるぜ。あんたが腰抜かすぐらいのな」
オヤジ「おうおう、相変わらず口だけは達者だな」
野口「なんだと」
と言ってよろける野口。
7.船上
野口。
8.回想(港)
出航を待つ野口と、恩師の血脇。
血脇「(包みを渡し)渡米費用300円だ。おまえにくれてやる」
野口「ありがとうございます」
血脇「これでおまえの望みがかなったんだ。もう後戻りはできんぞ。再び日本に帰っ
てきた時、もし今のままだったら、もうおまえに人生はない。そのことだけは肝に
命じておけ」
野口「はい」
9.船上
野口 ― 。
男E「どうしたんですか?博士。ほら、日本が見えてきましたよ」
見る野口。
遠くに見える日本の大地。
野口 ― 万感の想いがこみ上げてくる。
― 日本のみなさん、野口は帰ってきました。世界的な名声を得て、再び野口は帰っ
てきました ―
10.港
熱狂的な出迎えを受ける野口。
カメラのフラッシュが次々とたかれる。
そこに新聞見出し、かぶって
「天才野口英世君、米国から本日横浜着(東京日日新聞)」
*
「本日十六年振りに錦衣帰朝すべき野口博士(時事新報)
*
記者たちに囲まれるようにタラップを降りてくる野口。
記者1「野口博士、今度の帰国は?」
野口「二ヶ月の予定です」
記者2「久し振りの日本はどうですか?」
11.埠頭
出迎えに来ている多くの知人たち。
記者に囲まれて来る野口。
記者1「今一番なさりたいことは何ですか?」
記者3「最初の予定は?」
野口「そうですね、やはり…」
と言いかけて視線が止まる。
昔なつかしい人たちの顔。
野口。
出迎えの人々。
野口。
その中にいる血脇。
― 感極まって泣き出してしまう。
野口「やだなあ。泣かないで下さいよ」
と言うが、野口もたまらず涙がこぼれる。
再びカメラのフラッシュ、激しくなって ― 。
12.東京大学医学部長室
青山「(顔を上げ)何でオレが野口なんかの出迎えに行かなきゃならんのだ?あいつ
は東大とは関係のない男だろう?」
男1「何を言ってるんですか。野口ですよ?野口英世。アメリカ医学界最高の男、今
や世界のスターですよ。日本国民の名誉です」
青山「フン、アメリカがなんぼのもんじゃい。あんな未熟な国でちょっと活躍したぐ
らいで…」
男1「いえ、野口博士の業績はヨーロッパでも注目されているんですよ。野口博士が
ヨーロッパに招待された時には、あのドイツ医学会長のミュラー先生でさえ、野口
博士を表敬訪問されたそうです」
青山「え!?ミュラー先生が!?」
男1「ミュラー先生だけじゃないですよ。フランクフルトじゃエールリヒ博士だって
…」
青山「…」
13.ホテル・ロビー
来る青山。
野口、北里たちと話している。
北里、青山に気づく。
北里「おや、青山先生、こんな所でお会いするとは…」
サッと見る一同。
青山「いや何、野口君にあいさつにね。北里先生もですか?」
北里「まがりなりにも野口君は伝研派の出身…いやいや、元伝研派の出身ですからな。
今夜は元伝研派で歓迎会ですわ」
青山「(ムッとくるが、抑えて)ちょっと失敬」
青山、野口にあいさつにいく。
笑顔で歓談する二人。
青山 ― その笑顔にかぶって、
― 何でオレがこんな所に来なけりゃならんのだ。オレは青山だぞ ―
14.料亭
北里たちが野口の歓迎会を開いている。
野口「久し振りに日本に帰ってきましたが、北里先生も大変なようですね。伝染病研
究所はどうされたんですか?」
北里「情けない話だが、去年東大に乗っ取られてな。今、新しい研究所をつくってる
ところだ」
男2「しかし野口、お前ずい分立派になっちゃったよなあ。昔の姿からはとても想像
できんよ」
男3「ホントホント。あの頃は少し金ができると酒、女…」
笑いがもれる一同。
野口。
北里「野口はアメリカの社会が性に合ってたのかもしれんな。日本は建前ばかりで身
動きしにくい」
野口「はい。アメリカは実力主義の国ですから、私のような者にもチャンスがありま
した」
男4「正直な話、野口が日本にずっといたら、どういう仕事をやってのけても、これ
だけの名誉はもらえなかったでしょうね」
見る野口。
北里「そうかもしれん。今、ヨーロッパは戦争で荒廃し始めているというし、これか
らはアメリカの時代が始まる。日本ももうドイツドイツとばかりは言っておれなく
なるだろう。そうなるとますます君の存在は大きくなる。日本の医学にとってもな」
野口「はい」
男1「明日からはどういう予定なんだ?」
野口「とりあえず故郷(くに)へ帰ります」
男1「まあ、いろいろ忙しいとは思うけど、せっかくだから日本医学の業績も見てい
ってくれよ。ずい分日本も進歩したぞ」
野口「ええ、ぜひ」
15.田舎の駅[翁島(おきなじま)駅]
― 福島県耶麻郡猪苗代町 ―
野口を迎える数々の垂れ幕。
大勢の出迎え。
汽車から降りて来る野口。
*
盛大に打ち上がる花火。
16.野口家
くつろいで窓から外を見ている野口。
親戚、知人が集まっている。
女1「(来る)やれやれ、新聞記者の人たち、やっと帰ったわ。せっかく故郷に帰っ
てきたっていうのに、こう毎日取材取材じゃ、英世さんも大変だわ」
女2「しかたないわよ。英世さんは国民的英雄なんだから」
うなずく一同。
男5「息子さんがこんなに立派になって、おシカさんも苦労したかいがあったな」
小さくうなずく母親シカ。
野口「(窓の外に目をやったまま)やっぱり故郷はいいな。日本はいい。あまりいい
思い出はないけど、いろんな人に迷惑かけ続けたけど、やっぱりここが最高だ」
男6「でもまたすぐ、アメリカに戻ってしまうんだろ?」
野口「アメリカにいたって心はいつも日本人だよ。アメリカの市民権が欲しいと思っ
たことは一度もないし、老後はできるなら猪苗代湖のほとりに家を建ててのんびり
暮らそうと思ってる。今だって、もしちゃんとした研究施設さえ用意してくれれば、
いつだって帰ってくるさ」
男5「そうだよ。それでこそ日本男児だ。会津の人間だ」
野口「(つぶやく)そうさ、オレはいつだって日本を…」
*
N「野口の、帰国の第一の目的は、年老いた母親シカに会うことにあった。それを果
たした野口は、公私にわたり多忙を極める中、日本人研究者の目ぼしい業績を見学
に回る」
17.当時の日本を代表する業績
研究室A。
― 人工ガンの研究 山際勝三郎・市川厚一(東大) ―
*
研究室B。
― つつが虫病の研究 川村麟也(新潟医専) ―
*
研究室C。
― ワイル氏病病原体の発見 稲田龍吉・井戸泰(九大) ―
(両氏はこの業績により1919年度ノーベル賞候補に上がっている)
18.研究室D
― ワイル氏病菌の純粋培養 伊東徹太(千葉医専) ―
訪ねてきている野口。
顕微鏡をのぞいている野口。
野口「これが病原菌のスピロヘータですか」
伊東「ええ。そしてこれが純粋培養したものです」
と試験管を見せる。
野口「ほう」
と受け取る。
野口「培養の方法をお聞かせ願えますか?」
伊東「スピロヘータの大家を前に恥ずかしいですが…」
野口「お願いします」
伊東「まずですね…」
N「野口は特にワイル氏病に興味を持った。そしてそのことは、後の野口に、重大な
影響を与えることになる」
説明を聞いている野口。その顔に、
― 日本がここまで進んでいたとは… ―
*
N「しかしこういう学術的な交流はごく限られたものだった。日本における野口は、
その大半が講演会と晩さん会におわれた」
19.講演会
熱弁をふるう野口。
立見までいる盛況ぶり。
N「それは一見華やかに見えた。しかしそれとはうらはらに、野口の心は日に日に乱
れていった。それには理由があった」
20.晩さん会
笑顔を見せている野口。そこにかぶって、
― なぜだ? ―
21.講演会
野口。
― なぜ? ―
22.晩さん会
野口。
― なぜ… ―
23.港
盛大な見送りを受けている野口。
野口「短い間でしたが、大変お世話になりました」
「これからも頑張って下さい」
「博士の活躍をお祈りしています」
*
汽笛 ― 鳴る。
*
五色のテープを引きずりながら港を離れる船。
24.船・甲板
港がずい分遠くになっている。
それをいつまでも見つめている野口。
― 沈んでいる。
男E、F、その様子を見ている。
男F「ずい分落ち込んでるようだな、ノグチは。故郷(ふるさと)離れ難き、という
ところか」
男E「そんな甘いもんじゃないよ。ノグチはついに日本の学界には受け入れてもらえ
なかったのさ」
男F「え?どういうことだ?オレの聞いたところじゃ、ノグチはどこに行っても大歓
迎、もう国民的英雄だっていうじゃないか」
男E「各地でノグチを招待したのは、ことごとく地方の医学会、実業家の会合、学生
の会合だった。学界レベルでノグチを祝賀した会はキタサトが一度しただけだ。信
じられん話だがな、大学からの招待は一つもなかったんだ」
男F「なぜ?」
男E「だから、日本の医学界はノグチを拒絶したということだろう」
男F「だから、なぜ?」
男E「ノグチの話じゃ、“学歴”がないからだそうだ」
男F「学歴?バカな。ノグチはもう、そういうレベルの人物じゃないだろう。世界中
どこへ行ったって…。じゃ、なにかい、ノグチは祖国日本において、最も不当な扱
いを受けているっていうのかい?」
男E「そういう社会らしいぜ、日本ていう国は」
男F「そんなバカな…それじゃノグチがあまりに…」
*
傷心の野口 ― 。
N「日本を想い、生涯アメリカの市民権を欲しいと思わなかった野口は、この時を最
後に、再び日本の土を踏むことはなかったのである ― 」
(A・終)
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