「栄光なき天才たち」

― 特別シリーズ・近代日本の科学者群像B「野口英世B」 ―

 作.伊藤智義


1.ビル
 ― 1918年 ニューヨーク ロックフェラー財団
   (ロックフェラー医学研究所とは独立の組織で1913年設立) ―
 N「日本から戻ってきた野口は、この時期、大きな転機を迎える。黄熱病の研究であ
  る。黄熱病は当時、ロックフェラー財団が大々的に取り組んでいたテーマであった」

2.会議室
 ― 同・国際保健局 ―
  説明している男A。
 A「(地図で示しながら)黄熱病はメキシコ大西洋岸、赤道アメリカ、アフリカ西海
  岸に発生する地方病です。肝臓が侵され、強い黄疸を示し、最後には黒い血をはい
  て死に到ります。蚊によって媒介されると考えられていて“西半球の恐怖”と恐れ
  られていますが、今のところ蚊の駆除くらいしか防疫手段はありません」
  聞いている一同。
  その中にいるロックフェラー医学研究所所長フレクスナー。
 A「この病気は一度かかって回復すると終生免疫になるといわれておりますので、現
  地人よりもむしろ免疫のない外国人旅行者にとって脅威です。特に1914年にパ
  ナマ運河が開通して、現地との交通が頻繁になりつつある現在、黄熱病がアメリカ
  に、そして世界中に広がる恐れがでてきており、その対策が急務となっています。
  我々ロックフェラー財団国際保健局では黄熱病委員会を組織し、1914年から本
  格的な撲滅作戦を展開していますが、いかんせんコマ不足です。本日ロックフェラ
  ー医学研究所から所長のフレクスナー博士をはじめ科学評議員のみなさんをお招き
  したのは、そのことについてです。我々に協力していただきたい」
 フレクスナー「そういう話ならロ研としても協力は惜しまないが、具体的には?」
 A「現在流行している赤道アメリカ地域について、我々はその風土的中心地をエクア
  ドルのグアヤキルだと考えています。今度そこに送る派遣団を組織しているのです
  が、どうしても一人、優秀な細菌学者をチームに加える必要があるのです」
 フレクスナー「なんだ、話は簡単じゃないか。ノグチを参加させよう」
 A「(見る)ノグチ博士を参加させてくれるというのですか!?」

3.研究所
 ― ロックフェラー医学研究所 ―
 N「第一次世界大戦で疲弊していたヨーロッパに代わりこの時期、アメリカは医学に
  おいても事実上世界のトップに躍り出ていた。その中心にロックフェラー医学研究
  所があり、そこには野口がいた」

4.研究所
  研究をしている野口(42)。
  そこには数人の助手と秘書がいる。
 N「所内で最も多くの研究費を使い、研究室を数室占有していた野口は、押しも押さ
  れもしないロ研の看板であった」
  そこにフレクスナー、来る。
 秘書「博士、所長がお見えです」
  フレクスナー、かまわず入っていく。
 フレクスナー「ノグチ、上からの要請だ、グアヤキルへ行ってくれないか」
 野口「グアヤキル?」
 フレクスナー「黄熱病だ」
 野口「(見る)」

5.所長室
  ロックフェラーU世とロックフェラー財団国際保健局長ラッセルが来ている。
  フレクスナー、戻ってくる。
 局長「どうでした?ノグチは承諾してくれましたか?」
 フレクスナー「承諾も何も、ノグチに断わる理由なんかありませんよ。黄熱病は細菌
  学者にとって最大級の相手ですからね」
 局長「相手にとって不足なし、ですか」
 フレクスナー「そういうことです」
 ロックフェラー「まあ何にしろ、ロックフェラーとしても切り札を投入するんだ、手
  ブラじゃ帰ってこれんぞ」
 フレクスナー「(見る)」

6.町
 ― エクアドル グアヤキル 7月 ―
  来る野口と男B。
  盛大な出迎え。
 市長「ようこそおいで下さいました、ノグチ博士」
 野口「わざわざどうも」
 市長「地元の医師には全面的に協力するように言ってありますので、何でもおっしゃ
  って下さい」
 声「ノグチ!現地の医師の言うことを鵜呑みにするな」
  見る一同。
 市長「(顔が曇る)またあんたか」
 男C「ここは西半球で最も汚れた都市だ。公衆衛生の悪さをみてみろ。患者は二種類
  以上の熱帯病にかかっている可能性を忘れるな」
  憤然となる一同。
 市長「ふざけたことを言うなっ!」
 野口「(小声でBに)誰だ、あの男は」
 男B「先発の医師だと思います」
  言い争っている両者。
 野口「…」

7.病院
  野口と男Bを案内している地元の医師A。
 医師A「(浮かれている)いやあ、感激だなあ。本物の野口博士にお会いできるなん
  て。おうわさわかねがね…」
  病室。
 医師A「こちらです」
  入っていく。

8.病室・中
  患者でベッドがつまっている。
  野口、患者を見る。
 野口「なるほど、強い黄疸が出ているな。確かにワイル氏病に似ている」
 医師A「は?ワイル氏病?なんですか、それは。ここにいるのはみな黄熱病患者です。
  しかも重症の」
  野口。
 医師A「野口博士は研究者でいられるから、臨床はあまりなされないんでしょう」
 野口「確かに。黄熱病の患者を実際に見るのは今日が初めてだ」
 医師A「でしょう。ここは私に任せて下さい。今、研究用の血液を採取しますから」

9.実験室
  準備をしている野口と男B。
 男B「博士は黄熱病は初めてだとお聞きしましたが」
 野口「うん」
 男B「何か方針は立てておられるんですか?」
 野口「私は黄熱病は初めてだが、ワイル氏病についてはここ数年、詳しく調べていて
  ね、そこから攻めようと思っている」
 男B「と言いますと?」
 野口「黄熱病とワイル氏病は感染媒体が蚊とネズミというような違いはあるが、両者
  は非常によく似ている。臨床的には区別をつけがたい。そこで、かりに黄熱病の病
  原菌もスピロヘータであると考えて、ワイル氏病菌の培養法を使ってみようと思う
  んだ。たとえそれが失敗しても、何らかの手がかりはつかめると思う」
 男B「なるほど。さすがですね。それでは私は本部に戻りますが、何かあったら連絡
  して下さい」
  出ていく男B。
    *
  野口、実験動物のモルモットを手にする。
 野口「とにかく、やってみることだ」
  モルモットに採取した患者の血液を接種する野口。

10.ロ研・野口研究室
  各々の実験をしている助手たち。
 助手A「ノグチ先生、もうグアヤキルに着いたかな?」
 B「そろそろ研究を始めてる頃じゃないか?」
 C「でもどうしてかな?どうして黄熱病なんか…今まで一度も手がけたことがないっ
  ていうのに…」
 B「今回に限ったことじゃないさ。梅毒、小児麻痺、狂犬病、トラコーマ、そして黄
  熱病…ノグチは大物を追って駆けずり回っている」
 C「なんでだろう?どれ一つとっても、それだけで一生費やす研究者はたくさんいる
  っていうのに…」
 B「それがロ研の使命だからさ」
 A「どういうことだ?」
 B「この研究所がロックフェラー財閥の搾取ぶりを隠蔽する手段として生まれたPR
  団体だってことだよ。だからロ研は、民衆の喝采を浴びるような、当面問題とされ
  ている病気に次々と取り組まなければならないんだ」
 A「なるほど」
 B「ただ一つ解せないのは、ノグチの態度だ」
  見るA、C。
 B「どうしてノグチはあんなに所長に従順なんだろう?ノグチほどの男なら、どこに
  行っても通用するだろうに…」
    *
 N「しかし、野口に選択の余地はなかったのである」

11.グアヤキル・実験を続ける野口
 N「日本に拒絶された野口に、生涯安住の地はなかった。異国の地で外国人として生
  きる野口にとって残された道はただ一つ、ロックフェラー研究所の望むままに大物
  を求めて駆けずり回り、期待された業績を上げ続けること。立ち止まれば消えてし
  まうのである。そこに流出科学者の哀しさが見えるという」
  一心に研究を続けている野口。
 N「しかしまたそれは、野口の野心とも合致していた。野口は進んでのめり込んでい
  く」
  顕微鏡をのぞいている野口。
 「ん?」
  となる。
 野口「これか?」
  拍子抜け気味の野口。
 野口「なんだ、あっさり見つかったたな」
  しかし、自然と顔がほころんでくる。
 N「現地入りしてわずか九日、野口は黄熱病の病原体を発見。それはトップニュース
  として全世界をかけめぐる」

12.新聞見出し
  次々と重なる。
 「黄熱病、征服される」
 「野口博士。病原菌発見。レプトスピラ・イクテロイデスと命名」

13.港
 ― ニューヨーク港 ―
  盛大な出迎えをうける野口。
 フレクスナー「(握手を求め)よくやったなノグチ。おめでとう」
 野口「ありがとうございます」
 記者1「病原菌はスピロヘータの一種だと伝わっていますが」
 野口「ええ。スピロヘータ科レプトスピラ属に属しています」
 記者2「それでレプトスピラ・イクテロイデスと命名されたわけですね?」
 野口「そうです。イクテロイデスとは、黄疸というような意味です」
 記者3「これで黄熱病は征服されたと考えていいわけですか?」
 フレクスナー「もちろんだよ。病原菌がわかれば、ワクチンを作って予防することが
  可能だからね」
 一同「おお」
 カメラマン「ノグチ博士、写真を一枚」
  盛んにたかれるフラッシュ。
 N「この業績により1920年、野口は1914、1915年に続き三度目のノーベ
  ル賞候補に上がる。しかしこの業績には、疑問を持つものが少なからずいた」

14.ロ研
  廊下をやってくる野口。
 声「ノグチ博士、私の忠告は守ってもらえましたか?」
  見る野口。
  男C。
 野口「あなたは?」
 男C「お忘れですか?グアヤキルでお会いしたはずですが」
  野口。

15.回想(グアヤキル)
  男C「ノグチ!現地の医師の言うことを鵜呑みにするな」

16.ロ研
 野口「(思い出す)ああ、あなたか…。しかし現地の医師の言葉を信用しなくて何を
  信用しろと言うんだ?」
 男C「はっきり言ってあいつらは無能ですよ。黄熱病とワイル氏病の区別がつかない。
  いや、エクアドルにはワイル氏病なんかないと思ってるんだ」
 野口「それじゃ君は、私が発見したのは黄熱病菌ではなく、ワイル氏病菌だと言うの
  かね?」
 男C「酷似してるっていうんじゃありませんか」
 野口「失敬な!イクテロイデス(黄熱病菌)とイクテロヘモラギエ(ワイル氏病菌)
  とは確かに似ているが、免疫学的に区別できる。そんなことは実証済みだ!」
 男C「(見る)…ならいいんですがね」
  去っていく男C。
  フン然としている野口。

17.野口研究室
 N「野口研究室では、ただちにイクテロイデスのワクチン(野口ワクチン)の製造に
  とりかかった。ロックフェラーの全面的な後盾により、各地で野口ワクチンの接種
  は加速度的にひろがっていった」
 A「ヒャー、これじゃいくら作っても、追いつかないよ」
  その傍ら、野口が論文を書いている。
  が、その手がフト止まる。

18.回想
 男C「…あいつらは無能ですよ。黄熱病とワイル氏病の区別がつかない」

19.回想
 現地の医師A「は?ワイル氏病?なんですか、それは。ここにいるのはみな黄熱病患
  者ですよ」

20.野口研究室
 野口「…」
  野口、フト、助手Aに、
 野口「なあ君、研究とはどういうものだと思う?」
 助手A「は?」
  見る助手たち。
 野口「ぼくはこう思うんだ。研究とは投機、または賭けの一種だ。当たるか外れるか。
  いくらすぐれた能力を持っていたとしても当たらなければ誰も振り向いてくれない」
 助手たち「?」
 野口「だから問題は、どこに賭けるかだ。初めは賛成者も反対者もいるだろう。しか
  しそれが正しければ、多くの人たちの尽力によっていつか大成する。大業というも
  のは、決して一人の力で成し得るものではない。多くの人たちの力が合わさってで
  きる。にもかかわらず、栄誉は初めの一人に帰せられる。その人がその後何もしな
  かったとしてもね。 ― 言ってる意味がわかるかい?」
 助手A「研究は賭けだ…ということですか?」
 野口「そう。その通りだ。もし君たちが世界的名声を得ようとするなら、自分の思っ
  ている説はどんどん発表することだ。躊躇してはならない。覚えておきたまえ」
  顔を見合わせる助手たち ― 「?」
  ふっきれたように再び論文を書き始める野口。その顔にかぶって、
 ― そうだ。もう後(あと)には引けんのだ ―

21.学会
 ― 1924年 熱帯病学会(ジャマイカ) ―
 研究者A「ノグチ博士の報告で疑問な点はまず、血液を採取した患者が本当に黄熱病
  患者であったか、また、黄熱病患者であったとしても、ワイル氏病に感染していた
  おそれはなかったのか。そして実験動物になぜ黄熱病に最適なアカゲザルを使わず、
  モルモットを使ったのか、ということです」
  聞いている野口。
 研究者B「しかし南米での黄熱病は急速に収束している。それは野口ワクチンの効果
  ではないのか」
 研究者A「黄熱病は免疫性の強い病気です。何もしなくても数年たてば収束します」
 研究者B「しかし被害状況は…」
 研究者A「黄熱病と誤認されたワイル氏病に効いたと考えられます」
  ザワつく場内。
  野口。
 研究者C「そりゃちょっとノグチ博士に対して失礼じゃないかね」
 研究者A「私は黄熱病の病原体はレプトスピラなんかではなく、濾過性病原体、俗に
  ウイルスと呼ばれているものではないかと考えています」
 研究者C「フン、ウイルスだって?そんな存在すら確認されてないものを持ち出して
  きて…」
 野口「(Aに)その根拠は?」
 研究者A「ノグチ博士の方法でいくら追試してみても、黄熱病患者からイクテロイデ
  スは発見されないからです」
 野口「それは君の技術が未熟だからじゃないのかね?」
  ムッと見るA。
  野口 ― 。
    *
 N「根強い反対はあったものの、大勢は野口説を支持していた」

22.イメージ
  賞を受ける野口。
 N「そしてこの時期野口は、この業績により、フランスからレジオン・ド・ヌール勲
  章、アメリカ内科学会からはコーベル・メダルを受け、数々の栄誉に包まれる」

23.野口研究室
 N「そして南米での黄熱病が収束するとともに黄熱病論争は沈静化していった」
  落ち着きを取り戻している一同。
 N「が ― 」
  フレクスナー、来る。
 フレクスナー「ちょっと来てくれ、ノグチ」
  野口。

24.所長室
 野口「何かあったんですか?」
 フレクスナー「最近、西アフリカで黄熱病が流行(はや)り始めているのは知ってる
  か?」
 野口「ええ、聞いてますけど…」
 フレクスナー「そこで研究しているイギリスのストークスがイクテロイデスを否定す
  る論文を発表した」
  見る野口。
 フレクスナー「詳しいことは今調べさせているが、もしストークス説が事実だとする
  と…」
  野口。
 フレクスナー「いや、私はあくまでノグチを信じている。私だけじゃない、世界中の
  ほとんどの研究者がノグチを支持している。間違いはないと思う。しかし、ことは
  すでに我々だけの問題じゃなくなっている。ロックフェラーの威信がかかっている
  んだからな。万全を期さないと…」
  そこに男D、飛びこんでくる。
 男D「大変ですっ!ストークスが死にましたっ!黄熱病でっ!」
 二人「何だって!?」
    *
 N「事態は大きく転回しようとしていた」

25.船上
  野口。
 N「1927年10月、野口は、ロックフェラーの威信と自身の研究者生命を賭けて、
  アフリカへ向かった」


 (B・終)



 野口英世 C


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