「栄光なき天才たち」特別シリーズ 〜 近代日本の科学者群像U 〜
「理化学研究所」 ― @ 所長 大河内正敏 ―

 作.伊藤智義


1.イメージ
  研究所。
 N「かつて、少資源国日本を憂い、科学立国をめざして、科学者が、自らの手で作り
  上げた研究所が、あった」
  財団法人「理化学研究所」(大正6年設立)
  (写真) 高橋譲吉(1854−1922)
   タカ・ジアスターゼの創製、アドレナリンの結晶単離により世界的に有名な化学
   者、実業家。「国民的化学研究所」の必要性を説き、「理化学研究所」の創設に
   尽力した。
 N「それは、経営を含むすべてが科学者の手による、まさに科学者たちの王国であり、
  近代日本科学の青春時代に生じた、奇蹟の産物であった ― 」

2.街並
 ― 東京 本郷富士前町 大正11年 ―

3.研究所
 ― 理化学研究所 ―
  正門横にあるバラック。
 ― 所長室 ―

4.所長室・中
  陶磁器を手にとって鑑賞し、悦に入っている男。
  きちんとした身なりで、なかなかのおしゃれである。
 ― 三代目所長 大河内正敏(44)
   造兵学主任研究員
   貴族院議員。子爵 ―
 大河内「(部下Aに)どうだ、みごとなもんだろう」
 部下A「先生!そんな悠長なことを言っている場合ではないでしょ。これを見て下さ
  い」
  部下A、報告書を広げる。
 大河内「(チラッと見て)ダメだな、おまえはいつまでたっても…。いつも言ってい
  るだろう。どんな時でも美しい物を美しいと感じる心が…」
 部下A「ええ、どうせ私はダメな人間ですよ。そんなことより聞いて下さい。とにか
  くひどいんですから、ここの財政は」
  大河内。
 部下A「国民的大研究所などと、みんな口では良いことばかり言いますけど、台所は
  火の車です。先生はてい良く所長を押しつけられたんですよ」
 大河内「あ、そろそろ時間だな…」
  フイと立つ大河内。
 部下A「どちらへ?」
 大河内「鈴木さんの所だ。なんでも合成酒の研究を始めたらしいんだが、その利き酒
  を頼まれてね」
 部下A「ですが今日は議会の方にも顔を出してもらわないと…」
 大河内「グルメな私の舌に挑んできたんだ、逃げるわけにはいくまい」
  出ていく大河内。
 部下A「あ、待って下さい」

5.同・表
  出てくる大河内。
  あわててついてくる部下A。
  その光景にかぶって、
 N「日本将来のことを考えて設立された理化学研究所だったが、政財界の反応は極め
  て冷たかった。期待していた寄付金は思うように集まらず、またたく間に財政危機
  に陥っていた。
   その危機を打開するため、最期の切り札として登場したのが、科学界のプリンス
  大河内正敏であったのである」

6.鈴木研究室
  農芸化学主任研究員 鈴木梅太郎(51)。
 N「ビタミン学の大家。1910年(明治43年)、当時猛威をふるっていた脚気の
  病因(ビタミンB1の欠乏症)を発見したが、医学界から不当な扱いを受け、認め
  られなかった。以後10数年を経て、ようやくこの頃(大正11年)、医学界もそ
  の正当性に気づき始めていた」
 鈴木「(助手たちに)毎年人口が増加していては、将来、必ず食料が不足するときが
  くる。それなのに日本人は主食物の米を毎年400万トンも酒に変えている。いま
  のうちに米以外のものからつくる酒の研究をやろう」
 N「理研での鈴木は、ビタミンの研究と並行して、合成酒の研究にも打ち込んでいく」

   *

  並べられた二つのコップ。酒がつがれている。
 大河内「これを飲み比べて、どちらが合成酒か当てればよいのですな?」
 鈴木「そうです」
  フムフム、と一口ずつ飲んでみる大河内。
 大河内「なるほど…こちらが清酒で、こちらが合成酒ですな」
 鈴木「(タメ息)やっぱりわかりますか…」
 大河内「(得意)素人はだませても、私の舌はだませません」
 部下A「(横から手を出し)どれどれ、私も合成酒とやらを一口…(飲む)」
 「ウゲッ」と顔をしかめる部下A ― まずいのである。
 大河内「(小声で)飲み込みなさい」
  チラッと見るが、飲み込む部下A。
 部下A「(鈴木に)な、なかなかのお味で…」
 「ハハハ…」と高笑いの大河内。

7.同・外
  愉快そうに出てくる大河内。
  ぺっ、ぺっ、とさかんにつばを吐きながらついてくる部下A。
 部下A「いやあ、何ですか、アレは。まるでゾーキンバケツのような…」
  そこに所員A、来る。
 所員A「大河内先生。ちょうど良かった。今、お伺いしようと思っていた所です」
 大河内「何かね?」
 所員A「こんど偏光の研究を始めようと思うんですけど、どうしてもニコル・プリズ
  ムが必要でして…」
 部下A「(あわてて)ダメだ、ダメだ。備品購入なら所定の手続きをとってだね、」
 大河内「(部下Aに)いや、すぐに買ってあげなさい」
 部下A「(見る)先生」
 大河内「気の乗ったときにすぐやること、それが研究能率に影響する。ぐずぐずして
  いると気が抜ける。(所員Aに)買うなら、日本でいま買えるいちばん良いものを
  買いなさい」
 所員A「はい、ありがとうございます」
 部下A「もう…私は知りませんよ」
 大河内「(つぶやく)出し惜しみしていては、いつまでたっても欧米には追いつけん」
   *
 N「大河内は、経営者である前にまず自らが第一線の研究者であった。研究に対して
  は最大限の自由が与えられるよう、新しい制度を次々に導入していった。
  しかし、これは見方を変えれば放漫財政であり、貴族の楽天主義と陰で言われたり
  した。
   そして、この年の予算は、90万円と当初の3倍にも膨れあがってしまうのであ
  る」

8.会議室
  紛糾している幹部会議。
  長岡半太郎(1865−1950: 磁気歪(ひずみ)の研究及び土星型原子模型
  で有名。日本物理学界のボス的存在)、池田菊苗(1864−1936: 化学調
  味料“味の素”の発明者。当時の日本を代表する化学者)、鈴木梅太郎ら研究者の
  代表と理事たちが顔をそろえている。
  それに所長の大河内。
  理事の一人がつぶやく。
 理事1「つまりは、予算を縮小して健全財政とするか、それとも基金をさらに食いつ
  ぶしても積極的に研究を推進するか…」
 長岡「金がなくなったら、自分は紙と鉛筆だけでも研究は続ける」
 池田「物理の人はそれでいいかもしれんが、化学から実験をとったら何も残らん。そ
  れに所員に払う給料はどうするつもりだ」
  鈴木。
 理事2「財界があまりに冷たすぎるんだ。日露戦争で日本が勝てたのも下瀬火薬の開
  発があったればこそなのに、今じゃ東郷元帥や乃木大将の武勇伝ばかりがもてはや
  されている。このままじゃ日本の将来は…」
 理事3「ここでそんなことを言っても、しかたあるまい。問題は、この危機をどう乗
  り切るかだ」
 理事1「所長はどうお考えです?」
  見る一同。
  鈴木。
 大河内「私は長岡さんの意見に賛成です。基金のなくなるまで思いきって積極的にや
  る。いよいよお手上あげになっても、研究成果さえあがっていれば、政府も放って
  はおくまい、そう考えています」
   *
 N「大河内には一つの目算があった」

9.外
  葉巻きをくわえて出てくる大河内。
 N「所内で研究によって生じる発明を資金源にしようと考えていたのである。それは
  つまり、自活への道であった」
  葉巻きの煙をフーっと吐き出し、
 ― 日本の頭脳が集まっているというのに ―
 大河内「なかなかうまくいかんもんだ…」

10.ベンチ
  座って、ポケーっと空を見上げている男がいる。
 ― 物理学主任研究員 寺田寅彦(44) ―
   *
  難しい顔をしたまま大河内、来る。
  大河内、寺田に気づき、横に座る。
 大河内「何をしてるんだい?」
 寺田「…雲を見てるんだ」
 大河内「雲を?」
 寺田「そう」
 大河内「新しい研究テーマかい?」
 寺田「いや。ただ何となく、そういう気分なんだ」
 大河内「ただ何となく?」
 寺田「うん」
 「ふうん」と一緒になって見上げてみる大河内。
 寺田「(ポツリと)大変そうだな」
 大河内「何が?」
 寺田「所長職」
 大河内「まあまあだな」
 寺田「すまないな」
 大河内「何が?」
 寺田「ぼくのところからは金になりそうな研究は出そうにない」
 大河内「ハハ…何を言ってる。研究者にとっては、あくまで基礎科学の研究が主、発
  明は徒。まあ、おまけみたいなもんだ」
 寺田「(見る)そうだな。(大きくうなずき)全くその通りだ。さすが大河内、松平
  伊豆守の末えいだけある。本質は見失っていない」
 大河内「で」
 寺田「?」
 大河内「まあ、参考までに聞くけど、最近、その“おまけ”が出てきそうな研究室は
  あるかな?」
 寺田「…さあ。ぼくの知る限りでは…」
 大河内「ない? ― 全く?」
 寺田「全く。いや、まてよ。そういえば一つだけ…」
 大河内「(身を乗り出し)あるのか?」
 寺田「確か梅太郎さんの所で酒を作っていたはずだ。あれを売り出せば…」
 大河内「…(絶句)」
 「あの合成酒ね…」と、大きなタメ息。

11.鈴木研究室
  鈴木。
 ― せめてコレが売り物になったらなあ ―
  と、自分で作った合成酒を飲んでみる。
  とたんに顔をしかめる鈴木。
 鈴木「まずいっ。(他人事のように)よくこんなものを大河内君は飲んだもんだ」
  その時、研究室の片隅から声が上がる。
「できたっ!」
 高橋(助手)「鈴木先生!ビタミンAの分離に成功しました!」
 鈴木「ほう!やったか高橋!」
 高橋「はい」
  顔がほころぶ鈴木。
  ― ハッと気づき、
 鈴木「そうか、これは使える」

12.廊下
  いそいそと先を急ぐ大河内。
 大河内「金のなる木、金のなる木…」

13.鈴木研究室
 大河内「(来る)金のなる木を…いや、何かを発明したんだって!?」
 鈴木「うちの高橋がね、肝油からビタミンAを分離したんですよ」
 大河内「ビタミンAというと?」
   *
 N「当時の死亡原因第一は結核であった。しかし治療法が確立されていない時代であ
  る。栄養補給に努めるしか手はなかった。その結核患者にとって、ビタミンAを豊
  富に含む肝油は重要な“薬”であった。ところが、これはすこぶるまずく、鼻をつ
  まんでやっとのめるほどのもので、患者に苦痛を強いていた」
   *
 鈴木「つまり、この成功によって、患者は無理して肝油を飲む必要はなくなり、ビタ
  ミンAの錠剤をのめばすむということになるわけだよ」
 大河内「なるほど。これはいけますな」
 鈴木「三共製薬に話してみたところ、ずい分乗り気でね、かなりの権益が期待できる
  よ」
  見る大河内。
 N「大河内はこのチャンス、逃しはしなかった」
 大河内「いやいや鈴木さん、これだけのものをみすみす他社に譲ることはない。工業
  化は理研(うち)でやる」
 鈴木「(ビックリ)理研(うち)でって…理研(ここ)にはそんなことができる人は
  一人も…」
 大河内「(高橋を見る)やってくれるね?高橋君」
  ビックリして見る高橋。
 大河内「機械の方は私がみる」
 鈴木「(あわてる)大河内くん、そんな無理をして失敗したら、理研はめちゃくちゃ
  になる」
 大河内「しかし、他(ほか)に理研が生き延びる道はない。すべての責任は私が持ち
  ます」

14.所内に ―
  工場が急造されている。
  その様子を足繁く見て回る大河内。
 大河内「(作業員に)どうだ?」
   *
  鈴木研究室。
  一丸となって量産化にとりくんでいる研究者たち。
 高橋「(首を振り)ダメだ。溶媒を変えてみよう」
   *
  昼も。
   *
  夜も。
   *
  そして ―
 N「三共で三年かかるといわれた工業化を、わずか四ヶ月で成し遂げた」

15.完成した工場
  感慨深げに見上げる大河内。
 高橋「(来る)やればできるもんですね」
 大河内「(見る)君のおかげだよ。よくやってくれた」
 高橋「いやあ…」
  風呂にも入っていないような高橋のその顔がほころぶ。
  その脇では部下Aがぶつぶつと、
 部下A「そういう会話は薬が売れてからにしてもらいたいもんだ。こんなものを作っ
  たおかげでどれだけ赤字が増えたか…」
  そこに男B、あわてて駆けてくる。
 男B「所長!大変です!」
 大河内「どうした?」
 男B「人が…大勢の人が…」

16.門の所に ―
  大勢の人が詰めかけている。
 「あたしゃここでビタミンとやらが買えるっていううわさを聞いてきたんだけどね」
 「なんでも、大変なものらしいよ」
 「うわさではね…」
  ガヤガヤとうるさい。
 「オーイ、門番はいないのかっ」
  業を煮やした一人が叫ぶ。
 「かまうことはねェ。入っちまえ!」
  その一言を合図に、群衆がなだれこむ。

17.工場
  群集が殺到してくる。
 男B「き、きた…」
  ビックリして目を丸くする部下A。
 「ほう」と満足そうな笑みを浮かべる大河内。
 大河内「高橋君、現在ある在庫をあの人たちに分けてあげて下さい」
   *
  即売会の様相。
 部下A「はい、一列に並んで!横入りはダメだよ」
  薬を売り渡していく高橋。
   *
 N「商品名“理研ビタミン”は、すさまじい成功であった。つくれば売れる、うなぎ
  のぼりの売れ行きで、ついには年間100万円(現在の15億円に相当)の売り上
  げを記録、理研全体の赤字部分の過半を帳消しにしたという」
   *
  その様子を満足そうに見ている大河内。
  その肩をチョンチョンと誰かが叩く。
  見る大河内。
  鈴木が助手Bを連れてきている。
  助手Bはお盆にコップを二つのせている ― 酒。
  鈴木、ヒョイヒョイとその酒をさし示す。
 大河内「ほう、再挑戦ってわけですかな?」
 鈴木「(自信満々)まあ、やってみて下さい」
  大河内、二つを飲み比べてみる。
  オッという感じの大河内。
  もう一度飲み比べてみる。
 「フム…」
  しばらく考えて、
 大河内「こっちが清酒で、こっちが合成酒」
  見る鈴木。
 大河内「どうですかな?」
 助手B「…せ、正解です」
 大河内「(小さく)ほう、当たったか」
 鈴木「…(ガッカリ)」
 大河内「(ニヤリとして)まだまだですな、鈴木さん。こんなものは、とてもとても
  酒とはいえませんな」
  ハハハ…と高笑いの大河内。
 「ムムッ」となる鈴木。
  その光景に ―
 N「この後、理研から続々と研究成果があがる。大河内はそれを次々と工業化し、理
  化学研究所は、アッという間に、産業界にも一大勢力を築くまでに膨れ上がる。そ
  れはまさに、科学者たちが自らの力で動き始めた瞬間であった。
   もちろん、鈴木の合成酒はその中でも主力商品の一つであった ― 」


 (@・終)



 理化学研究所 A


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